休診日:日曜・祝日

     水曜日と土曜日は午前のみです

京都市北区西賀茂榿ノ木町31−2
院長 諸岡 憲(もろおか けん)
  1. Dr.Ken's通信 Dr. Ken's Communication



 

Dr.Ken's通信 Dr. Ken's Communication



*「白いカラスが舞う、蝉時雨の聞こえない遙かなる欧州の夏」

*「ドイツ人の主食はジャガイモではなく肉」:豊かなドイツの食文化

*「Tourist or Resident」と「日本人または外人」:日本の常識は世界の非常識

* 2011年秋大流行している肺炎はマイコプラズマ肺炎?―またしても起きたマスコミの誤報道とそれを安易に追従・容認して迷走する不勉強な医師たちー

*薬理学と錬金術師

*ワクチンの「副作用」?について

*ヒブワクチンの詳細またしても起きたワクチンを巡る我が国特有の風評被害

*日本脳炎と日本脳炎ワクチンに関する背景の詳細

*ワクチンフリー児の驚き: 祈祷師対最先端医学

*薬、クリスマスそしてドイツ語

大変遅くなりましたが、4回目の紀行です。今回は、ドイツの夏を中心とした気候や自然、さらには、生活習慣などで良い点ばかりでなく、困った点などもご紹介したいと思います。

「カァー、カァー」と特有の鳴き声を響かせて、前方の上空を鳥が舞っていた。「何だカラスか」と最初は気にもとめなかった。しかし、「うん?今のカラス黒色じゃなかったぞ!?はて!?」。19937月、爽やかな夏空の下Münchenの広大な英国庭園(Englischer Garten)を散歩していた時のことである。夏休みを利用してWürzburgMünchen等の南東ドイツを旅行中のことであった。

毎年日本ではゴールデンウィーク前頃から6月の梅雨入り頃までを、所謂初夏と呼び、暑くもなく寒くもない心地よい季節を迎える。ドイツを含む、アルプス以北の欧州も5月中旬以降は実に爽やかな気候を迎え、丁度日本の本州と同じ初夏の気候となる。ところが、日本との決定的な違いは、この季節がそのまま8月中旬まで持続することである。欧州には梅雨に当たる季節は勿論、日本の様な「不快な真夏」も存在しない。従って、5月中旬から8月中旬までが欧州では夏(Sommer)なのだ。具体的な気温を上げると、最高気温は20℃から25(年間数回30℃を超える)で、最低気温は12℃から14℃くらいに過ぎない。また、時々雨も降るが、雨の時の最高気温は14℃くらいで、日本の3月中旬並みの寒さとなる(6月や7月でも!)。勿論、湿度は降雨時以外は年中10%〜30%程度である。つまり、6月や7月でも、時としてセーターは愚かジャケットも必要になることすらある。日本の真夏を好む人には逆に耐えられないかもしれないが、私は幼少時から日本の梅雨以降の高温多湿な季節は大の苦手で、未だにどうしても馴染むことができない。従って、ドイツ滞在時の夏は、私にとっては天国のような季節であった。この項を執筆し始めた20136月現在、5月下旬に早くも梅雨入りしたかと思えば、連日、真夏と同じ気温30度以上の高温多湿な日々が続き、少々滅入ると共に、Freiburgの爽やかな青空をうらやましく思い出してしまう。

真夏がないことは他にも色々な恩恵をもたらしてくれる。ドイツには蚊はいない。最近、主としてアフリカから、人間と共に飛行機に紛れて「密航」してくる不届き者の蚊がドイツやオーストリアでも観られるようになったが(このため、欧州で時々マラリアが発生していることすらあると言う話をProfessor Dr. Herttingから聞いた)、本来の気候では、蚊はアルプス以北の欧州では生存できない。当然、蚊取り線香の類はドイツやオーストリアでは販売していない。後に訪れたアルプス以南のイタリアではスーパー(Co-op:勿論消費生活協同組合Co-opの発祥の地はスイスである。スイスのどの都市にもCo-opがある)に日本製の蚊取り線香や電気蚊取りが販売されていた(製造は欧州工場のもあるが多くはマレーシアなどであった)。一度も蚊に遭遇しなかった夏を、その時、私は人生で初めて体験した。同様に街灯に群がる蛾や羽虫なども観たことはなかった。日昼には、蝶は勿論、トンボやハチが飛んでいるのは言うまでもない。

害虫が存在しない理由は、その気候にある。上記で述べたように、7月でも深夜になると気温は12℃くらいまで低下する気候では、当然虫にとっては夜間の活動は不可能であり、時には発生・生存すらできない種もある。害虫が存在しないことは素晴らしいのだが、反面寂しい点もある。ドイツには蝉は勿論、日本の秋の訪れを告げる、鈴虫、松虫のような美しい鳴き声を奏でる虫も存在しないのだ。従って、ドイツの夏は、日中たまに鳥の鳴き声が聞こえる程度の静寂が支配し、蝉時雨などはあり得ない

蝉に関しては、冗談の様な面白いエピソードが残っている。世界で初めて造られた動物園はどれかと言うのは、諸説有る。最初の近代的科学的動物園は、英国のロンドン動物園(1828年)と言うのが定説であるが、それより遙か以前に、オーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿(後述)に造られたシェーンブルン宮殿動物園(1752年)が世界で最初の動物園と考えられる。英語の動物園Zooは、正式にはZoological Gardenであり、ドイツ語のZoologischer GartenZoologischerは「動物学の」と言う意味。ツォーロギッシャーと発音する)と全く同じである。どちらが語源なのか、これも諸説有り判然としないが、英語における他の学術用語は、殆どがドイツ語、または、ラテン語(フランス語)を語源としていることからしても、ドイツ語が起源ではないだろうか。そのドイツでも最初の近代的動物園として誕生したのがBerlinZoologischer Gartenであり、かつての西ベルリンの中心地にある。今でも子供達を始めとして大変人気があり、観光名所の一つとしても挙げられている。明治に日本で最初の動物園である東京の上野動物園が開設された際(1882年)、多くの動物がBerlin Zoologischer Gartenから供与された。キリン等の動物が上野動物園に初めて運ばれてきた時の話である。上野動物園側は、2kmにもおよぶ長距離、数ヶ月に及ぶ長期間航海を経てはるばる運搬してきてくれたドイツ人達の労をねぎらい、代金以外に何か謝礼を差しあげたいと申し出た。これに対してのドイツ人達の返答が実にユニークなのだ。「では、あの「鳴く木」を是非とも譲渡して下さい。帰りの船でドイツに持ち帰りたい」と答えた。その時は、丁度7月後半から8月上旬だったようである。「鳴く木」など当然存在するはずもなく、動物園内の広葉樹に止まったアブラゼミかクマゼミが鳴いていたに過ぎない。このドイツ人の返答に、上野動物園の職員達は、一瞬何のことか分からず、暫くして蝉のことと気付いたとの事である。お互いさぞかし驚いたに違いない。遙かなるアジアの国の真夏には蝉という昆虫が存在することを、彼らは初めて知ったわけであるから。

蝉の生存北限は北緯40度近辺と言われている。私が住んだFreiburg im Breisgauはドイツの最南端に当たる都市だが、それでも北緯48度(4759分)もある。日本で言えば、最北端の利尻・礼文島から北海道最北端の稚内くらいに相当する高緯度なのである。Berlin北緯52くらい5230分)なので、彼らが蝉など見たこともないのは当然である。ちなみにフランスでも、パリ(Paris)やストラスブール(Strasbourg, ドイツ語ではStraßburg)は、Freiburgとほぼ同緯度のため蝉はいないが、学会や国際シンポジウムで訪れた、中南部のリヨン(Lyon)以南、地中海沿岸部(Cote dAzur)のニース(Nice)、カンヌ(Cannes)、あるいは、プロバンス(Provence)地方のモンペリエ(Montpellier)、ニーム(Nimes)、アヴィニョン(Avignon)辺りでは、当然、真夏の季節には賑やかな蝉時雨が聞こえていた。


蒸し暑くない夏は、虫ばかりでなく、そこに住む人々の生活習慣をも必然的に変容させてくる。ドイツ人を含む欧州大陸人は、大人も子供も入浴が余り好きではなく、シャワーを浴びるだけなのだが、それすらも年中平均1週間1回程度である。かつて19世紀終わり頃まで、一般家庭は愚かフランスのベルサイユ宮殿やドイツ・ポツダム(Potsdam 18世紀半ばまではプロシア公国。後にドイツ第二帝国。第二次世界大戦の戦後処理、特に、ドイツと日本の処理について協議されたポツダム会談は、このポツダムのツェツィリーエンホフ宮殿Schloß Cecilienhofで行われた。トルーマン・米国大統領、スターリン・ソ連首相、チャーチル・英国首相が会談で使用したテーブル、各々のいすが保存展示してある)のサンスーシ宮殿(Schloß Sanßouci 18世紀前半、フリードリヒ大王の命により建立された、ベルサイユ宮殿を模倣したとされる絢爛豪華な宮殿)、あるいは、オーストリア・ウィーン(Österreich Wien)にあるハプスブルク家のホーフブルク(Hofburg)やシェーンブルン宮殿(Schloß Shönbrunn)等の皇帝や国王の宮殿ですら、バスタブは存在しなかった。

一方、大陸の対岸にある英国は古くからバスタブに浸かる入浴の習慣がある。その英国は、産業革命の成功により世界で最初に資本主義化した後、植民地戦争でスペイン、オランダ、フランスを次々に打ち破り、19世紀後半になると、世界一の超大国にのし上がっていた。そうして巨万の富を得た英国貴族達が、夏の保養でスイス(Schweiz、フランス語ではSuisse)、特にレマン湖斑(Lac Leman)のジュネーブ(Geneve、ドイツ語ではGenf)やローザンヌ(Lausanne)に大挙してやってくる様になった際、彼らは多数の従者を従え、一財産になるほどの大荷物を抱えてやって来た。その時、大荷物の中に、英国からわざわざバスタブを運んできたのである。勿論、当時のスイス人には、バスタブに浸かると言う、英国人には勿論、我々日本人には当たり前の習慣が皆無であったからである。19世紀後半以降、スイスのホテルでは英国人用にバスタブを完備するようになり、これが次第に欧州大陸全体に普及したのである。

従って、未だに旧来の習慣の名残で欧州大陸の一般家庭にはバスタブがないところが多い。ホテルですら、3星以下の大衆向けホテルには、バスタブがないのは勿論、シャワーですら共同使用で各部屋にない場合もある。

欧州域内を学会出張や旅行する際、私は、Reisebüro(旅行代理店。FreiburgではTourist Informationを兼ねていたので、公的機関である。その他、個人経営的なものがどの街にもあるが、日本のJTBの様な全国的規模かつ私的企業の旅行代理店は、ドイツを含めた欧州にはない)や現地のTourist Informationで宿泊ホテルの予約を取っていたが、交渉の際の条件提示で、室内に最低シャワールームを備えていることを常に強調していた。ちなみに、私は日本のお仕着せ団体パック旅行は経験したことがない。目的地を先ず決めたら、行程表を作成してReisebüroを訪れて、ホテルの予約を取ってもらう。次に、DBDeutsche Bahn: ドイツ鉄道)の時刻表で列車の時間を調べ、列車の発車する少なくとも30分以上前に駅(Bahnhof)へ行き、窓口で切符を買うと言う、旅の仕方に慣れてしまっているからだ。他人の決めた強行スケジュールに併せて自由な観光も出来ず、ありきたりのまずいレストランで他人に押しつけられたメニューの食事をし、ましてや、移動はバスのみで同行の日本人と日本語ばかり喋って、現地の人々と会話すら出来ないなどの無意味な団体行動は、時間とお金の無駄に他ならず私には耐えられないからだ。FreiburgDBBahn Cardと言う、年間割引カードを持っていた。これは、DB全線の乗車賃が年間何回乗ろうと全て半額になると言う、日本では考えられないサービスである。しかも、入会資格は、ドイツに住所があって長期滞在していることだけ。即ち、国籍は無関係であり、DBの駅窓口で年間会費220マルク(当時の日本円で約14,000円)を払って、書類1枚に記入すれば、その場で臨時カード(後日、本カードが郵送されてくる)が発行され、直ぐに使用できた。

日本からの旅行の場合、先ず、航空券と1日目(連泊分も含む)のホテルの予約を大学生協等で確保するか、あるいは、航空券だけ買って、あとは馴染みのホテルならばFaxを送って自分で予約を取っておく、と言う段取りである。自分でスケジュールを決め、自由に動く。これでこそ旅と言える。90年代後半からはインターネットでホテルの予約は勿論、DBSNCF(フランス国鉄)のTGVなどの予約すら取れるようになったから、益々便利になった。おそらく、JTBなど一生縁がないままであろう。今後欧州へ旅行される方は、是非この方法を試されることを強くお勧めする。パック旅行などでは決して味わえない真の意味での異文化との交流が体験でき、物理法則でもないのに、物事の見方は、決して日本人の考える様な一定一律の尺度では決められないことを理解するであろう。そうすれば、日本で日常茶飯事に起こっている「科学的検証を経ない右にならえ現象」が実に陳腐で馬鹿馬鹿しいことであるか分かるはずである。他人任せにせず自分で旅をすることは、こうした別の次元で物事を考える力、即ち、広視野多元的思考法を養え、ひいては人生の深みとも言うべき掛け替えのない財産を手にする一助となろう。当院受診中の方でしたら個人旅行については私が詳細な方法をお教えします。

私が住んだ住居(Wohnung)は、以前この項で紹介した様に、小高い丘の登り口(ふもと)付近にある2階建ての家であったが、1階と2階が完全に分離しており、斜面に建つおかげで、両方別々の玄関を備えた、いわば、両者1階建ての家を積み上げた形になっていた(お互いの間には通路となる階段はなく、完全に独立していた)。2階に住む大家さんは、フライブルク大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)理学部化学研究所教授で、日本に何度か訪れたこともある知日家であり、私たちを歓迎してくれたのは勿論、照明器具や家具一式は言うに及ばず、食器類に、冷蔵庫やテレビ(ケーブルテレビでドイツ各地の放送局は勿論、CNN、フランスTF1TF2やスイスの放送局も受信できた)も備わっており、また、館内セントラル・オイルヒーティングを備えていて、真冬も室内では薄着で充分なほどの暖かさを保っていた。さらには、Bath Roomに最初から小さいながらもバスタブをも備えてあった。Institutで皆にこのバスタブの話をすると、「欧州では珍しいよ。でも、バスタブなんか必要なの?」と言われたのには面食らった覚えがある。

汗腺(脚注1)の数と分泌量が白人(Cocasian)の方が、東洋人に比して圧倒的に多いのは生理学的に明らかであり、当然、白人の方が体臭は強い。加えて、古来入浴の習慣が殆ど無い彼らが自然のままでは、他人にとっては、特に、我々東洋人にとっては耐えられない臭いを放つことになる。そのため、欧州人は皆エチケットとして、オーデコロン(脚注2)や香水を必ず毎朝の身支度の際使用している。しかしながら、無頓着な若者も往々にして存在し、夏に列車で長距離旅行する際、コンパートメント(46人程度が座れる向かい合った長いすを備えた個室)に偶々その類の人と乗り合わせた場合、かなりの苦痛を長時間強いられることになる。欧州で香水の文化が早くから発達した背景は、この様な、彼ら自身の生理学的特質に加えて、入浴しない生活習慣が大いに関係している。さらには、尾籠な話ではあるが糞便を肥料として使う農業耕作法は欧州ではなかったため、上下水道施設が普及するまでは、彼らは糞便処理には大層難渋していた。彼のベルサイユ宮殿の庭園もそこかしこに放置された糞便のため悪臭を放っていたのである。このことが特にフランスで香水文化を繁栄させた大きな原因でもある。

ただ、入浴を積極的にしない習慣には、ある意味合理性も存在する。欧州は、1年のほぼ半分を過酷な冬の季節が支配する。更には、先述した様に、1年中低湿度である。従って、10月以降に毎日入浴して皮脂を落としてしまうと、確実に乾燥性皮膚炎(皮脂欠乏性皮膚炎)を起こしてしまう。私も、自宅にバスタブがあるのをいいことに毎日入浴していたら、11月になって生まれて初めて乾燥性皮膚炎を起こしてしまった。過ぎたるは及ばざるが如しとは正しくこのことでよい教訓となった。

欧州の夏のもう一つの美点は、日照時間が驚異的に長いことである。毎年、ドイツでは3月最終日曜日の夜中から夏時間に入り、10月最終日曜日までは、冬時間よりも1時間前倒しになる。5月中旬頃で日の出が午前6時過ぎくらいで、日没は午後9時を過ぎてからである。6月、7月はもっと長く、日の出が午前5時前後、日没が午後10時過ぎとなる。夕方7時や8時などは未だ太陽は高く存在し、日本の感覚で言えば同時期の午後2時から4時くらいに当たる。FIFA World CupWelt Meister)が欧州で開催される際、試合開始は現地時間の午後9時(日本標準時翌日午前4時)からが多いのは、この日照時間の長さのためである。午後6時や7時に試合開始としたのでは、太陽は天頂近くにある「真っ昼間」なので選手の体力消耗を早めてしまうからだ。フランスのレストランの夕食時間は午後8時からであり、7時前に店に行こうものなら、未だ準備中で開店していないと言って追い返されるのが落ちである。ドイツのレストランでは流石に追い返されることは少ないが、それでも、午後8時前の時間帯には、殆ど客はいない。アルプス以南のイタリアなどでもフランスやドイツと習慣を合わせているため同様である。つまり、6時や7時は欧州人にとって余暇を楽しむ「昼下がり」の一時であり、夕方という感覚ではなく、ましてや夕食時でもないのだ。


欧州の夏でどの街でも普通に見かけるカフェやレストランのオープンテラスは、この気候、日照時間、そして、蚊を含めた害虫がいないと言う条件が揃うことで初めて可能になる。日本では真夏の昼下がりに(あるいは夕方ですらも)平地の屋外で飲食など難行苦行、不快以外の何者でもない。夏の昼下がりに、大聖堂広場(Münster Platz)やTiti See湖畔、あるいは、週末旅行で訪れた街の広場周辺などにあるKaffeのオープンテラスで、ビールやEis Kaffe(冷たくないぬるいコーヒーの上にアイスクリームをのせたもの。バニラクリーム(Sahne)上掛けの有り無しを注文時に選べる。日本のアイスコーヒーを想像していたら驚いてしまう)を飲みながら優雅な時間を過ごせるのは、欧州ならではである。



真夏がないと言うことは、海水浴を始めとした水泳は楽しめないじゃないかと考える方もいるであろう。ところが、6月にもなれば、暖かい地中海は勿論、日本人からしたら年中冷たい海の北海(Nord See)や各地の湖(FreiburgならばSeeparkTiti See)において、大勢の海水(湖水)浴客で賑わうのである。いずれも水温20℃ほど(あるいはそれ以下)しかないのに、彼らは平気で泳いでいる。しかも、もっと驚くべき事には、かなりの人が、老若男女を問わず、自然のままの姿、即ち、水着を身につけずにうろついている。Professor Herttingが、7月頃、「SeeparkTiti Seeに行けば水泳を楽しめるよ。但し、水着は着けない方が良いよ。そうでないと、周りから白眼視されるから」と言って、いたずらっぽく笑ったことを今でも覚えている。教授の忠告は冗談交じりではあるが、ともかく、日本で言えば、温泉では裸で入浴するのが当たり前という感覚と同じと考えて良い。但し、別に決まりではないので水着を着る・着ないは各人の自由である。一方、欧州にも各地に温泉が存在し、裸で入浴する温泉も勿論あるが、原則水着着用の場合がある。ヴィクトリア女王やナポレオン3世と言った欧州の歴代の国王や皇帝を始めとして、ドストエフスキーやブラームスなどの文化人も度々訪れたことで有名なバーデン・バーデン(Baden-Baden)はFreiburgと同じBaden-Würtemberg州に属する街で、DBICEInter City Express 最高時速300 km/h)で約45分ほどで行き来できる位置(京都―神戸間くらい)にある。この地で一番有名なカラカラ浴場(Caracalla Therma)に入場する際、水着を持っているかどうか尋ねられ、持っていなければ、水着を先ず買ってきてくれと言われて中には入れないのだ。つまり、こちらは温泉ではなく温水プールと言う感覚である。従って、カラカラ浴場の中で体を洗う等はもってのほかである。日本の温泉浴を期待して出かける方は、この直ぐ近くにある由緒正しいフリードリッヒ浴場(Friedrichsbad 1877年創立)へ入場すればよい。こちらでは石けんで体を洗うこともできる。但し、大浴場は男女混浴で、勿論裸で浴槽内にはタオルなどは持ち込めない。ご注意を。

低水温でも平気で泳げる理由は、生理学的に考察すると、おそらく、馴化であろう。例えば、高い山に一気に登ると、急激に低下する気圧及び酸素濃度の低下のため呼吸困難、頭痛、吐き気、めまい等の症状が現れる。所謂高山病である。高山病に陥らないためには、登山の場合などは、じっくり時間をかけて登り、徐々に体を慣らすべきだと言うことは、大昔から知られている。これを生理学用語で馴化(Acclimatization)と言う。メキシコやペルーの人たちは、皆高地で生活しているため、低気圧と低酸素濃度に適応している、即ち、馴化しているので高山病にはならない。人間の肌の色の違いも広義の意味での馴化と考えられる。人類誕生の地は、アフリカであることがほぼ定説となっており、ここから人類は世界中に拡散していったと考えられている。それぞれの地に定着した各部族・民族は、その地の気候に馴化(順応)していかないと種の維持は困難となる。即ち、アフリカでは強烈な紫外線を含む太陽光から生体機能、特に、皮膚の腫瘍化を防ぐためにメラニン色素産生量が増え、肌の色は必然的に茶褐色から黒となると同時に、体温(中心温度)の高温化を防ぐために必要以上に体表面積を増やさないように高身長化を抑制するべく、DNAが変異を受け固定化して行った。一方、ヨーロッパに定着した部族は、年間を通じては短い日照時間と冷涼な気候のため、体温(中心温度)を逃がさないために体表面積を多くし、さらに、紫外線を多く取り込んで活性型ビタミンDを積極的に産生する必要があり、結果として、高身長で肌の色が薄い紅色となるように、DNAが変異を受け固定化して行った。アジア地域に定着した部族は、この中間的な特徴を備える。即ち、肌の色は黄色みを帯びた肌色となり、ヨーロッパ部族ほど高身長ではない様に、変異・固定化して行った。いずれも数十万年という気の遠くなるような時間をかけての馴化である。ここで、敢えてもう一度言うが、この様に人類にはたった一つの種しか存在しない事を忘れてはならない。

低水温での水泳の話に戻ると、年間平均気温が日本よりも10℃以上も低く、少なくとも、4ヶ月以上も最高気温が10℃以下が続くような冷涼な気候である欧州に長く住めば、おそらく、日本人を含めた東洋人にも馴化が起こり、低水温でも平気で泳げるようになると考えられる。但し、この馴化は個別の反応、即ち、各個体においてのみ生じた反応で子孫には受け継がれない。



939月末、週末日帰り旅行でマンハイム(Mannheim ICEFreiburgから約2時間弱)を訪れた。途中からあいにくの雨となり、その時の最高気温は12℃ほどしかなかった。日本で言えば真冬の気温である。Mannheimはライン川が街の中心部を流れ、川岸に船としては使われなくなった大型の客船を係留してあり、中は改造した博物館兼レストランとなっている。そこを訪れたときの光景は、今でもあまりにも衝撃的なので忘れられない。川岸近くのベンチに、普通の中年くらいの男性が、昼寝していたのである!しかも、他人に優しく、例えホームレスであろうと、困った人には直ぐに手をさしのべるドイツ人達が皆知らん顔なのだ。つまり、この男性は困っているわけでもなく、気温12℃で雨の降る中、普通に昼寝しているだけなのだ!つまり、これも馴化である。

前回の項でInstitutでの昼食はMensaで取ると述べたが、時々雨も降った。ところが、Mensaまでの道のりの数分間、Prof. Dr. HerttingDr. Dolezalも決して傘は差さない(持っているかどうかも怪しい)!英国紳士のこうもり傘は世界中で有名だが、欧州大陸人は、雨が降っても傘を差すのはほんの僅かの人に限られる。雨をSchauerとしか表現しない(これ以外の雨を表す単語は英語のRainにあたるRegenがあるが、気象予報ですら余り用いられない)彼らにとっては、雨に濡れても直ぐに乾くから傘など不要なのだ。最初は彼らの態度に戸惑ったが、一方で、私が傘を差していても、それをおかしいと指摘したりする様な野暮は誰もしないことに気付いた。それは個人の自由に属することだからだ。日本人の様に、十把一絡げに皆に併せないと村八分になる等と言う感覚は、彼らには到底理解できない。素晴らしいことである。

先日、息子達をつれて京都の大規模ショッピングモールを訪れた。日曜日なので、広い店内と言えども家族連れでごった返していて、すれ違うのにも苦労するほどであった。日本のこういう施設では、休日ともなれば見慣れた極く自然の光景である。店内のポスターやディスプレイには、誇らしげに「毎日夜9時まで営業」と表示してある。ところが、この様な光景はドイツではあり得ない。以前、この項で述べたように、ドイツには閉店法(Ladenschlußgesetz 脚注3という法律があり、私の滞在していた1990年代では、デパートやスーパーは勿論、個人商店までも含めて、一律、平日木曜日を除く月曜日から金曜日までは、午前7時から1830分まで(木曜日のみ2030分まで)。実質は、午前9時から午後6時まで(木曜日は午前9時から午後8時まで)、土曜日は何と午後2時まで!の営業時間で、さらには、日曜日・祝日は、一切の商店は営業してはならないとなっていた。従って、土曜日の午後2時以降は、街の中心街はゴーストタウンと化すのだ。ちなみに、フランス、スイス、オランダ、ベルギー、オーストリア、チェコ等にも同種の法律があり、ドイツとは多少の営業時間の違いがある(オーストリア、スイスはドイツとほぼ同じ)にしても、日曜日・祝日は例外なく商店は休みである。さらには、この閉店法が足かせとなって、ドイツ・オーストリアにはコンビニエンス・ストアやドラッグ・ストアなどは、つい最近まで一切存在しなかった(脚注3)。これらは、いずれも米国の文化である(ここにも欧州と米国の違いが如実に垣間見える)。但し、レストランやカフェ等の飲食店は閉店法の例外なので、日曜日はウィンドウショッピングをしてレストランで食事をするという静かな休日となる。その他、森の民、ゲルマン民族の子孫であるドイツ人達の休日の過ごし方としては、森林(Freiburgの郊外にはかの有名な黒い森Schwalzwaldがある)の中を散歩やサイクリングをする、あるいは、美術館や博物館巡りをする、DBや車でAutobahn(アウトバーン:高速道路。速度無制限で全線無料)を利用して近郊(フランスやスイスも近郊)を小旅行する等の優雅な時間を過ごすのである。どこか1箇所の混雑する場所に渋滞に巻き込まれたりしながらわざわざ出かける等の行為は考えられない。何故こうなるかと言えば、ドイツではカトリック教会の力が強く、神の定めた安息日たる日曜日に働く等と言う行為は、神を冒涜することに他ならないからである。又、労働者の権利に対する意識も徹底しているため、土曜日の長時間労働などは認められないのである。日本の「土日は稼ぎ時」とか「お客様は神様」などと言う概念は全く通用しない。慣れてしまえば、これはこれでありと思えるようになったが、当初は、食料品や医薬品の調達もできないことに非常な不便も感じた。何せ、酒類は勿論、飲料水の自動販売機ですら殆ど存在しないのだ!自動販売機がないことは、リサイクル法の制定以降、徹底されたものであると同時に、前回で述べた様に、それ以前から、ビールを含めて缶詰は鮮度を保てないと頑固に信じられているドイツでは、缶の飲料水など存在しないからだ。また、空き瓶は、リサイクル法により、瓶の色別に回収するボックスが町中に備えられているが、自動販売機を設置したら空き瓶の回収が滞る可能性が高いため、存在しない(例外として、DBの駅構内には時々飲料水の自動販売機が置いてある)。空き缶自体は殆ど絶滅危惧種だが、日本でよく見かける空き地や公園に空き瓶が転がっている等という光景はお目にかかったことがない。これらのことは、何事も消費者の便宜や企業にとっての目先の利益等の経済効率を第1義に考える米国式概念に対して、公共性と遠い将来を見据えた環境保護を第1義に考える欧州式概念との大きな相違点である。どちらが優れているかは敢えて言及しない。生まれてこの方米国式消費文化にどっぷり浸かってきた我々にとっては、欧州式はやはり不便に感じることも事実ではある。ただ、お笑い芸人のネタでもないのに、「欧米」とか「外人」とか言った十把一絡げに括る物言い、マスコミが言っているからと無批判に追従する思考・発想は捨て去るべきである。以前から何度も繰り返しているが、こういった安直な思考・発想が、日本だけで年中行事の様に起こる「ワクチンの副作用」と言った非科学的騒動の根本原因であると考えられるからだ。

完璧とも思えるドイツ人の合理主義だが、たまに、首を傾げたくなるものもある。998Berlin国際神経化学学会および欧州神経化学学会合同隔年総会(International Society for Neurochemistry and European Society for Neurochemistry Joint Biennal Meetingが開かれ、両会ともに会員である私は発表参加することになり、再び欧州の地に足を踏み入れた。学会での講演発表を無事終了した後、Freiburgへ立ち寄り、夕食後、DBフライブルク中央駅(Freiburg i. Br. Hauptbahnhof)近くのホテルのKaffeで、いつものように美味しいコーヒーを飲もうと思った。8月と言えば初秋であり、やや肌寒さを覚えたので、オープンテラスではなく、店内に入っていった。結構、混雑していたので、漸く空席を見つけたのは、カウンターの洗い場の直ぐそばになった。コーヒーを注文し、差し出された絶品のコーヒーを楽しんでいた。と、その時、カウンターの中のバーテンダーが、洗剤を満たした浴槽に浸けていた使用済みのカップを取り出し、全く水洗いをせずに、ふきんで水気を拭い取ると、そのまま次の供給棚においたのである!勿論、私のカップもそこから取り出したものであった。そこで、初めて、私は思い出した。ドイツ人の食器洗いは洗剤を満たした水に浸けるだけで、決して水洗いはしないと言うことを!以前、Freiburgの日独協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft Freiburg)で、その様な話を聞き、まさかとは思っていたのだが。更に、その後、いくつかの紀行文などを読み返したら、これは事実であり、日本人とドイツ人の夫婦では、このことで激しい夫婦喧嘩になることもしばしばだそうだ。ドイツ人の論理では、「洗剤を加えた水で充分汚れは落ちたのだから、後は拭き取るだけで何も問題はない。むしろ、これを更に水洗いにかけるなどは、水の無駄遣いに過ぎないし、流れ出る洗剤による環境汚染につながる」と言うのだ。一理はあるが、日本人側からすれば、「食器にこびりついた洗剤の化学成分を体内に繰り返して取り込む方が健康に問題ではないか」となり、これらの夫婦は大喧嘩になり、どちらも折れない。医学的に考察すると、洗剤の類は体内での蓄積性は殆ど無く速やかに便中に排泄されるので、確かに問題はない。但し、敢えて、それを毎回口にするのは気分的に決して良いものではない。また、最近の洗剤は環境汚染に配慮したものも増えており、これらを使用すれば、水洗いしても環境汚染につながる心配は少なくなり、やはり水洗いすべきだと考えるのだが。お互いに長年染みついた習慣故、今後も、おそらくドイツ人と日本人のカップルにおいてはこの件での論争は絶えないであろう。

さて、あれこれ尽きぬ話題に、つい今回も長文化してしまった。19943月、休暇を5日間頂き、初めてBerlinを訪れた。当時は、東西ドイツ統一が成されてから未だ3年半ほど経過したに過ぎず、現在、日本のSONY等の資本が参入した大規模ショッピングセンター(SONY Centreと言う)や劇場(ここでベルリン国際映画祭が開催される)や映画館などの娯楽施設が建ち並び、Berlinの新たな中心地となったポツダム広場(Potsdamer Platz)などは、見渡す限り広大な空き地で、その中に壁(ベルリンの壁)が異様な雰囲気で未だ立ちすくんでいた。旧東地区に立ち入ると、怪しげなロシア人?(ロシア語を喋っていた)たちがU-Bahn(地下鉄)の出入り口近くで闇たばこを売り捌いていたり、銃弾の跡が残るくすんだレンガ造りの建物が目立ったりと、東西分断の傷跡が生々しく残っていた。


ポツダムPotsdam)はDBS-Bahn(近郊電車)でBerlinから30分ほどのところにあり、この機会を利用して訪れた。3月初旬のベルリンやポツダムは、未だ真冬であり、最高気温も6℃ほどしかない。更には、京都の北山時雨とよく似た冷たい雨が、晴れていても突然襲ってきたりする。ポツダムに到着して早速サン・スーシ宮殿を訪れた。ベルサイユ宮殿を模倣し、それを凌駕する宮殿を建造したとされる同宮殿は、広大な敷地の中に幾つもの荘厳華麗な宮殿や庭園を抱える。その広大な庭園を散歩していた時のことである。目の前に全体が灰白色で頭と胸の一部、および、羽の一部のみが黒色という、ツートンカラーの鳥の一群が庭園の芝生で羽を休めて群がっていた。そして、この鳥の鳴き声が、「カァー、カァー」だったのだ。つまり、この鳥たちはカラスの群れであったのだ。半年以上前の夏にMünchen英国庭園(Englischer Garten)で一瞬見かけた鳥は、やはり、カラスだった。このカラスは、後に調べたところ、ズキンカラス(学名Corvus Corone Cornix、英名Hooded Crowという種類で、日本で通常見られるハシボソガラス(Corvus Corone Orientalis、日本にはこの他ハシブトガラスも多い)の亜種である。そして、これはヨーロッパのみに広く分布生息する種であることも分かった。私も、カラスと言えば、真っ黒という固定概念であったから、この時の衝撃は忘れられない。科学者にとっては、常識や固定観念に囚われず、常に目の前の事象をよく観察し徹底的に論理的に考察することこそ重要であると、改めてこのカラスたちに教えられた。BerlinからFreiburgへ帰ってくると、やや暖かみを感じる日が増え、Freiburgがドイツ人にとって一番住みたい街とされる理由を改めて実感した。ドイツでの生活ももう残り僅かとなっていたが、人生観そのものを大きく変える忘れ得ぬ日々であった。まだまだ書き足りないことが多々あるが、今回はこの辺りで稿を終えたい。今年の梅雨も明け、いつも通り連日人間の体温を凌駕する炎熱地獄の憂鬱な真夏が始まった(この項をアップする8月現在、連日気温37℃を超え、ついに四国では41℃を記録した。もはや亜熱帯を超え熱帯となってしまった)。皆様どうか御身ご自愛の程を。Tschüß (さようなら)。また、次回をお楽しみに。

 

脚注 1:汗腺には2種類有る。即ち、アポクリン腺(Apocrine Gland)とエクリン腺(Eccrine Gland)である。発汗により体温調節を行うのは、後者であり、後者は全身に分布する。エクリン腺からの分泌物は、殆どが水とNaClである。一方の前者、即ち、アポクリン腺は、毛孔に開口し、発汗による体温調節とは無関係である。アポクリン腺は、男女ともに、腋窩、乳輪、外陰部に分布存在している。アポクリン腺は、付属物として脂腺を有しており、この脂腺からの分泌物が主として体臭の基となる。汗腺総数は200万から500万であるが、日本人を含む東洋人の平均値は約230万個である。どちらの汗腺も交感神経による支配を受けており、従って、体温上昇や外的刺激による興奮、あるいは、危険を感知したりすると、両腺ともに、分泌量が増大する。

脚注 2:オーデコロンの発祥の地はドイツ・ケルン(Köln)である。18世紀前半にケルンで生まれた。ケルンはフランス語表記ではColonである(欧州では、他国の国名、地名を自国の言語で表記するのが極自然のこととなっている。もっとも、日本語のカタカナ表記だって同じようなものだが)。独仏は第二次世界大戦に至るまで、常にお互いを侵略しあう戦争を繰り返してきた。18世紀後半から19世紀前半に至るナポレオン1世によるドイツ侵略戦争の際、同地を占領したナポレオン1世やフランス軍兵士達が、既にケルンで普及していた香水を自国の妻や恋人への土産として持ち帰り、これがフランス全土に普及した。従って、その香水の名前を「ケルンの水 Aue de Colon」と名付けたのが始まりである。現在でも有名なブランド4711は、ナポレオン軍が占領した時に付けた番地を基にしている。

脚注31996年と2003年の2度に亘り、閉店法が一部改正された。現在では月曜日から金曜日までが朝9時から夕方8時まで、土曜日も朝9時から夕方8時まで(一部のデパート等は土曜日は午後6時までのところもある)となった。ただし、原則日曜日・祝日はやはり全て休日となる。さらには、DBの各中央駅(Hauptbahnhof)にドイツ資本のドラッグ・ストア兼コンビニエンスストアであるRossmannが出来、こちらだけは、営業時間も月曜日から土曜日までが朝7時から夜10時までとなっていて、何と日曜日・祝日も、朝8時から夜10時まで営業という、ドイツでは破格の長時間営業となっている!勿論、土曜日・日曜日に勤務している店員は、明らかに嫌々ながら働いていると言う態度がありありで、日本や米国のコンビニエンスストアの営業時間や店員の態度とは比較にならないが。2002Freiburgを訪れた際、DBフライブルク中央駅にこの店が開店していて、日曜日なのに営業しているのを見て驚いた。2006FIFA World Cupドイツ大会を控え、多数の外国人観光客、特に、北米と日本からの観光客(この人達は日曜日に開いている店がないことに、自分たちの慣習を押しつけて強くクレームを言うに決まっているから)がやってくることを当て込んで、産業界がカトリック教会と労働組合に圧力をかけ、漸く妥協したのが、この改正閉店法である。


写真(ほぼ完成形ですが時々編集修正することがあります)

#1. ミュンヘン新市庁舎(München Neues Rathaus)93年7月27日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4

#2. ミュンヘン ニンフェンブルク宮殿(München Schloß Nymphenburg)93年7月29日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2

#3. ヘレンキムゼー城(Schloß Herren Insel Chiemsee)バイエルン王ルードヴィッヒ2世が、尊敬するルイ14世のヴェルサイユ宮殿を完全コピーした宮殿 私は2回訪れ、2度とも大勢の観光客であふれていたが、東洋人(と思われる)観光客は私たちだけであった 97年8月10日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0

#4. ローテンブルク レーダー門 (Rothenburg ob der Tauber Rödertor) 93年8月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#5. ローテンブルク マルクト広場 (Rothenburg ob der Tauber Marktplatz) 93年8月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#6.  ロマンティック街道(Romantische Straße)終点のフュッセン(Füssen)近郊にある奇蹟の教会と呼ばれるヴィース教会(Wieskirche) 93年8月1日  Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#7. オーストリア ザルツブルク(Salzburg Österreich)のホーエンザルツブルク城塞(Festung Hohensalzburg)からの夜景 93年7月26日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#8. フライブルク市庁舎前広場(Rathaus Platz Freiburg i. Br.)石畳に彫り込まれている紋章は姉妹都市の紋章だが、一番手前のものは松山市である 93年5月17日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#9. フライブルク大聖堂(Münster Freiburg i. Br.)99年8月20日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#10. ヴュルツブルク旧市街(Altes Stadt Würzburg)マリエンブルク城塞Marienburg Schloss)から望む 99年8月14日 Canon New F-1 New FD 85mm/f=1.2

#11. オランダ アムステルダム中央駅(Centraal Station Amsterdam, The Netherlands)ここで開催された国際薬理学会総会(International Congress of Pharmacology)に参加発表した  90年7月2日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#12. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のモーツアルト像 89年6月8日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#13. スイス チューリッヒ(Zürich Schweiz)プレディガー教会とチューリッヒ大学(Predigerkirche & Zürich Universtät リンデンホーフの丘(Lindenhof)から望む 93年5月31日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2

#14. フライブルク新視聴者(Neues Rathaus Freiburg i. Br.)99年8月20日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#15. オーストリア ザルツブルク(Salzburg Österreich)ミラベル宮殿(Schloß Mirabell)93年7月24日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#16. オーストリア ザルツブルク(Salzburg Österreich)モーツアルト広場(Mozart Platz)93年7月24日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2,0

#17. オーストリア ザルツブルク(Salzburg Österreich)旧市街(Altes Stadt)93年7月25日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#18. スイス バーゼル(Basel Schweiz)市庁舎(Rathaus)93年6月5日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#19. ロンドン(London UK)国会議事堂(Big Ben)と2階建てバス(Double Decker)90年6月14日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#20. ロンドン(London UK)トラファルガー広場(Trafalgar Square)の夜景 97年8月28日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#21. パリ(Paris France)の夕景 59階建てのモンパルナスタワー(Tour Montparnasse)の屋上から望む 90年6月8日 Canon F-1 FD 50mm/f=1,4
#22. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のシェーンブルン宮殿 (Schloß Schönbrunn) 89年6月8日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#23.  ノイシュバンシュタイン城(Schloß Neuschwanstein)バイエルン王ルードヴィッヒ2世の居城93年7月29日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1,4
#24.  オーストリア ザルツブルク(Salzburg Österreich)から望むアルプス(Österreicher Alpen) 93年7月25日 Canon F-1 New FD 200mm/f=2,8
#25. ベルリン(Berlin Deutschland)ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)東西ベルリン分断時代は、この門のすぐ東に壁があり、くぐることはおろか近寄ることすら出来なかった。94年3月4日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#26. ベルリン(Berlin)大聖堂(Berliner Dom)プロイセン王国(後のドイツ第二帝国)の支配者ホーレンツォレルン家の廟所。旧東ベルリンにある 94年3月5日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#27. ベルリン(Berlin)ニコライ教会(Nikolaikirche)ベルリン最古の教会。同じく旧東ベルリン 94年3月5日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4,0
#28. ベルリン(Berlin)カイザーヴィルヘルム教会(Kaiser-Wilhelm-Cedächtnis-Kirche)1943年の連合軍の空襲により破壊されたが、戦争の悲惨さを伝えるモニュメントとして、そのままの形で永らく保存されてきた。現在、改修工事中 99年8月11日 Canon F-1 New FD 17mm/f=1.4
#29. ベルリンBerlin)戦勝記念塔 勝利の女神ヴィクトリアSiegessäule94年3月4日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4,0
#30. ドレスデン(Dresden Deutschland)レジデンツ城の時計塔およびフラウエン教会(Residenzschloß Uhrenturm & Frauenkirche)かつて中欧で最も美しい都市の一つに挙げられたこの街も、第二次世界大戦の連合軍の空襲により一夜で灰燼に帰した。その後、このフラウエン教会は、ベルリンのカイザーヴィルヘルム教会と同様、戦争の悲惨さを伝えるモニュメントとしてそのままの形で残されていたが、私の訪問した頃から再建工事が始まり、現在では美しい姿によみがえっている 95年10月14日 Canon F-1 FD 35mm/f=2.0
#31. リヨン(Lyon France)ベルクール広場 ルイ14世騎馬像とノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂(Place de Bellecour & Basilique Notre-Dame de Fourviere)93年8月20日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#32. リヨン(Lyon France)ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂(Basilique Notre-Dame de Fourviere)93年8月20日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2
#33. モンペリエ(Montpellier France)凱旋門(Arc de Triomphe)国際神経化学学会総会がこの地で開催され発表酸化した 93年8月24日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#34. モンペリエ(Montpellier France)水道(Aqueduc St Clement)プロヴァンス地方(Provence)は数多くのローマ遺跡が残存している 93年8月24日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2
#35. アヴィニヨン(Avignon France)法王庁(Palais des Papes)1309年、時の法王クレメンス5世がフランス王の圧力に屈し、ローマからアヴィニヨンに移住した。以後、70年近くは法王庁は、このアヴィニョンに存在した。世界史で有名な「教皇のバビロン捕囚」である。93年8月25日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2,0
#36. ニーム(Nimes France)神殿メゾン・カレ(Maison Carree)建造はBC1世紀 プロヴァンス地方(Provence)は数多くのローマ遺跡が残存している 93年8月25日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#37. ヘレンキムゼー城(Schloß Herren Insel Chiemsee)#3で紹介したバイエルン王ルードヴィッヒ2世が最後に建造した宮殿の内部、鏡の間。本家であるヴェルサイユ宮殿にも同様のもの(#39)があるが、それよりも広く豪華である。93年 7月27日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0
#38. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)の王宮(Hofburg)現在内部は博物館となっている 97年8月6日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2,0
#39. ヴェルサイユ宮殿(Versailles France)鏡の間 2002年9月10日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2,0
#40. ヴェルサイユ宮殿(Versailles France)2002年9月10日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2,0
#41. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)の新王宮(Neues Hofburg)現在内部は博物館となっている 97年8月6日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2,0
#42. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のベルヴェデーレ宮殿(Schloß Belvedere)ここも現在内部は博物館となっている 89年6月17日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2,0
#43. スイス ジュネーヴ レマン湖の大噴水(Geneve Lac Leman Schweiz)89年6月12日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#44. スイス ローザンヌ(Lausanne Schweiz)のノートルダム大聖堂(Catedrale Notre-Dame)89年6月14日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2:0
#45. スイス ルツェルン(Luzern Schweiz)のフィーアヴァルトシュテッテ湖(Vierwaldstätter See)中央に見えるカペル橋(Kapellbrücke)は1333年に建造された欧州一古い木造橋だったが、1995年に火災により焼失した(現在は再建されている)93年5月31日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#46. スイス バーゼル(Basel Schweiz)ライン川下りから望む世界最大の製薬企業チバガイギー(Chiba Geigy 現ノヴァルティス Novartis)本社屋 93年7月18日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#47. スイス バーゼル(Basel Schweiz)ライン川下りから望むチバガイギー(Chiba Geigy 現ノヴァルティス Novartis)本社屋 93年7月18日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#48. スイス モントルー(Montreux Schweiz)から望むレマン湖とアルプス(Lac Lemann Alpen)89年6月17日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2,0
#49. ポツダム(Potsdam Deutschland)のツェツェリーエンホフ宮殿(Schloß Cecillienhof)ポツダム会談の会場 95年10月22日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0
#50. ポツダム(Potsdam Deutschland)のニコライ教会と旧市庁舎(Nikolaikirche & Altes Rathaus)95年10月22日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#51. ポツダム(Potsdam Deutschland)のサンスーシ宮殿(Schloß San Ssouci)中国茶館(Chinesisches Teehaus)95年10月22日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#52. ポツダム(Potsdam Deutschland)のサンスーシ宮殿(Schloß San Ssouci)世界遺産 95年10月22日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#53. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のシェーンブルン宮殿(Schloß Schönbrunn)89年6月16日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#54. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のシェーンブルン宮殿(Schloß Schönbrunn)グロリエッテ(Gloriette) 89年6月16日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#55. BahnCard 仮カードと本カード PENTAX K-5 IIs SMC PENTAX DA Macro 100mm/f=2.8
#56. アントワープ ベルギーAntwerpen Belgieのノートルダム大寺院(O.L.Vrouw Kathedraal)日本で有名な「フランダースの犬」の最後の場面、主人公ネロと愛犬パトラッシュが天国に召された教会(しかし、この物語の原作者は英国人で、現地では物語そのものが殆ど知られていない)93年9月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#57. ストラスブール(Strasbourg Alsace France)の大聖堂(Cathedrale Notre Dame)93年12月22日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#58. パリ セーヌ川(Paris France)に立つ自由の女神  後方に見えるのは勿論エッフェル塔。米国New Yorkにあるものは、フレデリック バートルディ (Frédéric Auguste Bartholdi) と言うColmar生まれの彫刻家が彼の母親をモデルに作成したものを1886年米国に寄贈したものである 即ち、こちらが本家である。また、コルマーに彼の博物館があり、そこに70cm大の自由の女神(正真正銘の第1号)が陳列してある 90年10月22日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#59. ブレーメン(Bremen Deutschland)のブレーメンの音楽隊像 96年6月16日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#60. ブレーメン(Bremen Deutschland)ローラント像と市庁舎(Roland & Rathaus)96年6月16日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#61. コルマー アルザス(Colmar Alsace France) 2002年9月8日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#62. リヨン(Lyon France)ソーヌ川左岸から望む旧市街とノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂(Basilique Notre-Dame de Fourviere)の夜景 2002年9月14日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0
#63. フライブルク郊外メルツハウゼン(Freiburg i. Br. Merzhausen Deutschland 私の住んだところ)の丘(Schloßweg)からフライブルク市街を望む。私の右後方下端に写っている麦わらの束は、8月になれば、この様に普通に見られる。正しくミレーの絵画を思い起こさせるヨーロッパの原風景である 1999年8月17日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#64. Prof. Dr. Rolf Jackischと奥様のFrau Iris Landenberger Jackischご夫妻 ご自宅に晩餐に招待された時に撮影 公私に亘り大変お世話になった。 1999年8月18日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#65. プラハ チェコ(Praha Czech)の旧市街広場(Staromestske Namesti)でDr. Vladimir Dolezalと 夜10時半くらいで気温は17℃程度しかないが、彼は半袖のTシャツ1枚である 97年7月31日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#66. オーストリア シュタイン(Stein Österreich)市役所(Rathaus)前 右端のAudiProf. Dr. George Herttingの車で前に立っているのが教授本人でる 95年10月7日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#67. ハンブルク(Hmburg Deutschland)の港(Hafen)95年10月22日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#68. リューベック(Lübeck Deutschland)のホルステン門(Holstentor)14世紀ハンブルクと共にハンザ同盟の有力都市として繁栄した。95年10月20日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#69. アントワープ ベルギー(Antwerpen Belgie)の中央駅前広場(Centraal Station)ここにも多数のカフェがあり、どこも賑わっている。93年9月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#70. ストラスブール アルザス(Colmar Alsace France)プチ・フランス(Petit France) 97年8月2日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#71. コルマー アルザス(Colmar Alsace France)の市庁舎(Hotel) 93年8月14日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#72. プラハ チェコ(Praha Czech)のカレル橋の西端マラー・ストラーナ橋塔 95年10月10日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#73. パリ(Paris France)サクレクール寺院(Basilique du Sacre Coeur)93年8月30日 Canon F-1 FD 28mm/f=2.0
#74. モン・サン・ミッシェル(Mont St-Michel France)世界遺産 93年8月29日 Canon F-1 FD 28mm/f=2.0
#75. ヴュルツブルク旧市街(Altes Stadt Würzburg)マリエンブルク城塞(Marienburg Schloss)から望む レジデンツ(Residenz)これも世界遺産 99年8月16日 Canon New F-1 New FD 85mm/f=1.2
#76. フライブルク郊外 チチ湖(Außer Freiburg i. Br. Titisee Deutschland) 1999年8月6日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#77. プラハ チェコ(Praha Czech)のプラハ城から望む旧市街 大きなドームを持つ教会は聖ニコラス教会(Kostel. SV. Mikulase) 95年10月10日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2
#78. プラハ チェコ(Praha Czech)聖ヴィート大聖堂(Chram SV:. Vita) 95年10月10日 Canon F-1 New FD 20mm/f=2.8
#79. プラハ チェコ(Praha Czech)のカレル橋の旧市街橋塔 95年10月10日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#80. プラハ チェコ(Praha Czech)の旧市街広場 97年8月6日 Canon NewF-1 New FD 16mm/f=2.8 Fish Eye
#81. アヴィニヨン(Avignon France)アヴィニヨン橋(Pont St-Beneze)完成当時はローヌ川の対岸まで掛かっていたが、戦争の破壊により途中でと切れたままとなっている。93年8月25日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2
#82. マンドリュー・ラ・ナプール コート・ダ・ジュール(Mandelieu La Napoule Cote d'Azur France)海水浴場となっている。勿論、地中海 遠くにアルプスが見える。この地のリゾートホテルで臨床薬理学国際シンポジウムが開かれ、発表参加した 89年6月5日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#83. フライブルク 湖公園(Freiburg i. Br. Seepark)93年に購入した絵はがき
#84. バーデン・バーデン(Baden-Baden Deutschland)にて 99年8月17日
#85. オーストリア シュタイン市内(Stein Österreich)裏通りの昼下がりの風景 95年10月7日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#86. パリ(Paris France)エッフェル塔 2002年9月9日 Canon New F-1 New FD 35mm/f=2.0
#87. ドナウエッシンゲン(Donaueschingen Deutschland)ドナウ川源流の街。ドナウの泉。これがドナウ川の源泉である。正式には、市内を流れるブリガッハ川とブレーク川とが合流した地点がドナウ川の起点であり、そこにはDonau 2840kmと言う記念碑が建っている。93年6月13日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#88. リヨン(Lyon France)ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂(Basilique Notre-Dame de Fourviere) 2002年9月5日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0
#89. マンハイム(Mannheim Deutschland)雨霞のイエズス会教会(Jesuitenkirche)93年9月25日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#90. Professor Dr. Georg Hertting 私にとっては正しく欧州における父とも呼ぶべき存在である 93年3月24日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#91. オーストリア クレムス(Krems an der Donau Österreich)市街地 95年10月7日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#92. ツェレ(Celle Deutschland)ドイツで最も木組みの家が多く残存する街 北ドイツの真珠と称えられている 95年10月14日 Canon F-1 FD 35mm/f=2.0
#93. ドレスデン(Dresden Deutschland)カトリック旧宮廷教会とゼンパーオペラの夜景(Katholische Hofkirche & Semperoper) 95年10月10日 Canon F-1 FD 35mm/f=2.0
#94 ミュンヘン ニンフェンブルク宮殿(München Schloß Nymphenburg)93年7月29日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2
#95. ハイデルベルク ハイデルベルク城(Heidelberg Schloß Heidelberg)マルクト広場(Markt Platz)から望む 93年6月25日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2
#96. マンハイム(Mannheim Deutschland)ライン川の博物館船(Museumschiff)このすぐ近くで昼寝をしている男がいた 93年9月25日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#97. マンハイム(Mannheim Deutschland)選帝侯宮殿(Barockschloß Mannheim)93年9月25日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#98. マンハイム(Mannheim Deutschland)街のシンボル給水塔(Wasserturm)93年9月25日
#98. プラハ チェコ(Praha Czech)カレル橋から望むプラハ城とマラー・ストラーナ橋塔の夜景 95年10月15日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#99. オーストリア ウィーン(Wien Österreich)のシュテファン寺院(Stephansdom)95年10月13日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#100. オーストリア ウィーンWien Österreichのペーター教会(三位一体教会とも呼ぶ Peterskirche95年10月13日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#101. オーストリア ウィーンWien Österreichのウィーン大学(Universität Wien)Prof. Dr. Herttingの母校 95年10月8日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#102.,103. プラハ チェコPraha Czech投宿したペンションのオーナーDr. Kabelとスタッフ(彼女の母親は日本人で日本語が話せた)、そしてDr. Vladimir Dolezalと 95年10月16日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#104. マイセン(Meißen Deutschland)陶磁器で世界的に有名な街。1709年ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した。エルベ川の畔の丘に立つアルプレヒト城と大聖堂(Albrechtsburg & Dom)。ちなみに、エルベ川の源流はチェコであり、プラハを流れるときはブルタヴァ川と呼ばれるが、ドイツに入るとエルベ川と呼称が変わる。そして、最後にはハンブルクから北海に流れ出る。95年10月15日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#105. マイセンMeißen)劇場広場から望むアル プレヒト城と大聖堂(Albrechtsburg & Dom von Theater Platz)。95年10月15日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#106. ドレスデン(Dresden Deutschland)修復中のフラウエン教会(Frauenkirche) 上記で述べた様に、第二次世界大戦の連合軍の空襲により一夜でがれきと化したフラウエン教会は、ベルリ ンのカイザーヴィルヘルム教会と同様、戦争の悲惨さを伝えるモニュメントとしてそのままの形で残されていたが、私の訪問した頃から再建工事が始まり、現在 では美しい姿によみがえっている 95年10月14日 Canon F-1 FD 35mm/f=2.0
#107. ベルリン(Berlin)森鴎外の小説「舞姫」の出会いの舞台であるマリエン教会とテレビ塔(Marienkirche & Fernsehturm)この地区は旧東ベルリンであり、テレビ塔は西ベルリンに対する東側の建築技術の先進性の誇示と西に対する監視の役割も担っていた。95年8月21日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0
#108. フライブルク中央駅Freiburg i. Br. Hauptbahnhof)背景に見える尖塔は聖イエズス教会(Herz Jesuskirche)その袂にFuck the Facismの落書きがあった。97年8月4日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#109. ドレスデン(Dresden Deutschland)新市街から望む旧市街地区とエルベ川 95年10月16日 Canon F-1 FD 35mm/f=2.0
#110. ベルリン(Berlin)帝国議会(現ドイツ連邦議会議事堂)(Reichstag, Deutscher Bundestag)ドイツ第二帝国(1871年〜1918年)時代に建造。その後、第一次世界大戦後のワイマール共和国時代まで使用されてきたが、ナチスが1932年の総選挙により政権を掌握した翌年の1933年、突然炎上した。この事件をナチスは共産党員が放火したと激しく非難して共産党を危険分子と見なすように世論を扇動し、遂に、共産党を非合法化し独裁体制を強固なものとした。ところが事実はナチス自身が計画的にこの議事堂に放火していたことが後に明らかとなった。この放火事件により、その時まで存在したドームを含めた多くが消失した。東西ベルリン分断後は首都がボンに移ったため、長らく放置されてきた。90年にベルリンが再び首都となり、それ以降10年掛けてドームの再建をも含めた大規模改修工事が行われ、国会議事堂として復活した。写真は修復工事が急ピッチで行われていた頃である。99年8月12日 Canon New F-1 New FD 28mm/f=2.0
#111. カールスルーエKarlsruhe Baden-Würtemberg Deutschland)カールスルーエ城 Schloß Karlsruhe 99年8月5日 Canon New F-1 New FD 24mm/f=2.0
#112.. ヴュルツブルク(Würzburg)大聖堂(Dom)99年8月14日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#113.. ヴュルツブルク(Würzburg)旧市街(Alte StadtMarienburg Schlossから望む 99年8月14日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2
#114. ドレスデン(Dresden Deutschland)ドレスデン城(Residenzschloß)シュタールホーフ
Stallhof)の外壁に描かれた「君主の行列(Der Fürstenzug)」という壮大な壁画。長さ101mもある。 95年10月14日 Canon F-1 FD 17mm/f=4.0
#115. フライブルク郊外黒い森 (Freiburg i. Br. Schwarzwald Deutschland)にて。 Prof. Dr. Rolf Jackischとストラスブール大学(University of Strasbourg, France)からの大学院生と。彼女は日本語をかなり話せた。 1999年8月17日 Canon New F-1 New FD 50mm/f=1.4
#116. ベルリン(Berlin)ベルリン市庁舎(旧東ベルリン市庁舎 赤の市庁舎Rotes Rathausとも呼ばれる)94年3月4日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#117. ベルリン(Berlin)帝国議会議事堂(現ドイツ連邦議会議事堂)(Reichstag, Deutscher Bundestag)#110参照。大規模改修工事が始まる直前の姿。94年3月4日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#118. ベルリン(Berlin)大規模改修工事中のポツダム広場(Potsdamer Platz)遠くに帝国議会が見えるが、この時はまだドーム部分の工事が始まっていなかった。95年10月17日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0
#119. ベルリン(Berlin)シャルロッテンブルク宮殿(Schloß Charlottenburg)初代プロイセン王国国王フリードリッヒ1世の妃ゾフィー・シャルロッテの夏の離宮。94年3月3日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4.0
#120. ポツダム(Potsdam Deutschland)のサンスーシ宮殿(Schloß San Ssouci)新宮殿(Neues Palais)94年3月5日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#121. ポツダム(Potsdam Deutschland)のサンスーシ宮殿(Schloß San Ssouci)新宮殿 (Neues Palais)94年3月5日 Canon F-1 New FD 28mm/f=2.0
#122. ズキンカラス(学名Corvus Corone Cornix英名Hooded Crow
#123. ドイツの春の訪れを告げる日本桜(Japanisch Kirsch)フライブルクでは3月になれば咲き始める。しかし、どう見ても梅である。 94年3月フライブルク市民公園(Stadt Garten)で Canon F-1 New FD 50mm/f=3.5 Macro
#124. ケルンKöln Deutschland)大聖堂(Dom)。93年9月5日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4.0
#125. ケルンKöln Deutschland)大聖堂(Dom)。93年9月5日 Canon F-1 New FD 17mm/f=4.0
#126. ドイツ鉄道DBの車窓から眺めるライン川渓谷Rhein)。96年6月24日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4
#127. プラハ チェコ(Praha Czech)の旧市街広場(Staromestske Namesti)でDr. Vladimir Dolezalと 夜10時半くらいで気温は17℃程度しかないが、彼は半袖のTシャツ1枚である。中央は私の妻。 97年7月31日 Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0


大変遅くなりましたが、3回目の紀行です。今回は、前回予告しました様に、ドイツの食を中心にした話題にしたいと思います。

 

Guten Appetit!(召し上がれ)」と、大男の給仕が料理をテーブルに運んできた。私のドイツ料理の中でも大のお気に入りの、「Bohnen Eintopf mit Brötchen(豆の煮込みシチュー ドイツパン添え)」である。ここは、DBDeutsche Bahn ドイツ鉄道)の食堂車である。

  DBには、最速のICEInterCityExpress最高時速300 km/h)は勿論、所謂特急のECEuroCity)やICInterCity)にも、日本のJRがとうの昔に廃止した食堂車がある。このEintopfは、ドイツの代表的な家庭料理で、Bohnen(豆)以外にも、主菜としてWurst(ヴルストと発音する。ソーセージのこと。ドイツ語のWは英語のVにあたる)を用いる場合も多く、その他Kartoffel(ジャガイモ)等の多種多様な野菜類を食材として用いて、各家庭毎に独特な味付け工夫を成されて食べられている。

  DBBohnen Eintopfが絶品であるのは、何と言っても10数種類の豆(エンドウ豆、大豆、レンズ豆等々)をじっくりと数種類以上のブィヨンで煮込んだ手の込んだ料理だからである。添え物の焼きたてのBrötchen(ドイツパン)も数種類あり、しかも食べ放題になっている。Berlin、Aachen、Mainz, Hamburg、München、Köln、Dresden等の街へ長距離旅行や学会出張をする際、私は大概DBを利用し、その際、毎回のように食堂車で食事をし、ほぼお決まりの様に、この料理を注文していたのだが、毎回、同じようでありながら、微妙に味わいが違っており、飽きることはなかった。

 

ドイツ人の主食は、ジャガイモと誤解している日本人は、ドイツについての紀行文等を著している人々(この人達は実は何も本質を理解していない)ですら、未だに多く、渡独前もその後も、同じような質問を受け、辟易とすることが多い。「ドイツ人て、主食はジャガイモでしょう?」という、質問である。それに対して私は、「いいえ、肉が主食です」と答え、相手は驚いたり、怪訝な顔になったりする。上記のBohnen Eintopfは、ベジタリアン料理なので確かに肉は入っていない。しかし、ドイツでは、原則主食は、肉であり、ジャガイモもパンもパスタも米(主として、スペインやイタリア等で生産される所謂准輸入米(EU域内なので国内扱い)。インディカ米(長粒種。所謂タイ米)だが、案外よく食べる)も、全て必ずしも必須のものではなく、所謂添え物に過ぎない。但し、ジャガイモ料理も驚異的なほどの種類があり、日本ではおよそお目にかからないような調理法で食されることもしばしばである。パンについても同様の事が言え、数10種類以上のパンが街のBäckerei(パン屋)やHotel内レストランの朝食(Frühstück)に並び、どれもとてつもなく美味である。贔屓目もあるが、フランスのバケットより遙かに美味である(少なくとも両国の同ランクのホテルの朝食に並ぶパンを比較すれば)。その様な多様で美味なジャガイモ料理(ジャガイモ自体も美味)もパンも、必ず毎食供されるわけではない。毎食供されるのは、やはり、主食である肉なのである。更には、ジャガイモ料理もパンも全く供されず、代わりにサラダのみの場合もしばしばである。つまり、ジャガイモも米もドイツ人にとっては同列の「野菜」であり、事実、寿司屋(1990年代後半以降、ドイツ各地で急激に増加した)の「ちらし寿司」もドイツ語では「Reis Salat 米サラダ」と呼称されて、人気メニューとなっている。又、これも日本人にとっては意外であろうが、パスタはドイツ人の大好物の一つである。どこの街にも必ず2つ以上のイタリアンレストラン(イタリア人が経営し、調理人、給仕等も全てイタリア人)があり、パスタやピザは勿論、正しく本格的イタリア料理が堪能できる。言うまでもなく、パスタも正真正銘の本場イタリア同様の味わいであるのだが、パスタの中でドイツ人にとっての一番人気は、Spagetti Bolognäse(ボローニャ風スパゲッティ)である。これは、日本風に言えばスパゲッティ・ミートソースであり、豚挽肉をトマトベースのソースで煮込んだものを絡めたスパゲッティである。面白いのは、Restaurantのメニューに必ず載っているばかりでなく、所謂レトルト食品として、どこのスーパーにでも売っていることである。しかも、テレビのコマーシャルにしょっちゅう登場する。決め手のコピー文句は「Schnell! はやい!Schmeckt! うまい!」である。さしづめ、日本で言えば、カップラーメンのような存在である。

 ところで、一部の日本人には、ドイツのイタリア料理は、本場のイタリアは勿論、日本(勿論、日本人シェフ)のそれに比して遙かに劣る等と、うそぶく人が見られる。しかしながら、これは、公正さを欠いた偏見による信頼性に乏しい非科学的評価と断じざるを得ない何故ならば、この様な評価を下す人たちのドイツ文化に対する経験値はそれほど高くなく、しかも比較対照群としているのが、東京辺りの一流のふりをしたレストラン(コストパフォーマンスを度外視しただけなならばまだしも、悪意に満ちた低俗なマスコミが根拠もなく礼賛している様な店)のものであるので、劣悪な日本のマスコミが垂れ流す医療情報と同様、非科学的経験論に基づく無意味な論議に過ぎないからだ。確かに、ドイツの幾つかの街で経験するイタリア料理は、量の多さに比べると味わいの繊細さに欠ける店も存在するのは事実である。一方、ここ日本においては、一流店と威張っていながら、実質は粗悪な素材を用いて雑な料理を平気で客に提供し、それを味わう客達も、公正に評価する自らの力量がないために、マスコミの虚飾にまみれた宣伝に盲目的追従をしてその様な店に列をなし、有り難がって、あるいは、知ったかぶりをして食べているようなケースが掃いて捨てるほど多いのも事実である。Freiburg im Breisgauでおすすめのイタリア料理店を一つあげて、次の項に移りたい。市民劇場(Stadt Theater)の直ぐ近く、Sedan StraßeにあるBurger Stubeだ。料理はどれも絶品で、何時も混んでいる。後に私が、幾つかのイタリアの街(Milano、Firenze、Venezia等)を訪れて食した正しく本格的イタリア料理とさほど引けを取っていなかった。給仕は陽気なイタリア人青年たちで、私の時代に働いていた長身で金髪の青年は、イタリア語で何時も陽気に歌を歌っており、ドイツ語は勿論、英語も堪能に話してくれた。また、私に、「有難うは日本語で何というのか」などと、何度か通ううちに打ち解けて質問してきたりした。ここで過ごした時間と食した各種パスタ、ピザやミネストローネスープの味は今でも忘れられない。

 

 ドイツ人の3食の取り方も日本人のそれとは大いに異なる。

   先ず、朝食Frühstück)。朝は近所のパン屋(Bäckerei)から購入(毎朝配達してくれる)する焼きたてのパン(Brötchen)と、ハム(Schinken)やチーズ(Käse)、そして、卵(Ei)料理(ゆで卵 Gekochtes Eiなど)で、飲み物はほぼ排他的にコーヒー(Kaffe)だ。

   昼は、ドイツ人にとってはメインの食事であり、1日のうちで最もしっかりと食事を行う時である。つまり、一般的な日本人にとっての夕食に相当する。但し、平日の昼食Mittagessen)には、高々1時間程度の時間しか割かず、イタリア人のように昼食とその後の休憩に3時間も割くなどという非生産的なことはしない。また、日本と決定的に違うことは、朝食に絶対スープ類を食べず、逆に昼食には、スープ類は必須の料理となっていて、正餐の昼食でも必ずスープは出されるフランス料理では厳密な正餐時には、スープを食さないので、やはり、これはドイツ(オーストリア)料理の特異点でもある。また、第1次世界大戦以前は、ドイツ(オーストリア)でも朝食時にスープを食べる家庭もあったそうだが、朝にスープを食べることは非生産的であると考えられる様になり、いつの間にか廃れたと言うことである。

   最後に夕食AbendessenまたはAbendbrot)。これは極めて簡素で、Kaltes Tisch(冷たい料理)と呼ばれるチーズやハムを幾つか食べて、ビール(Bier)かワイン(Wein)を少し飲んで終わり、と言うもので、日本人からは想像もできない夕食である。又、この夕食を抜く者さえいる(日本人で朝食を摂らない者がいるのと似ている)。勿論、外食やパーティにおける食事はこの通りではなく、豪華な夕食をレストランで取ることは週末にはよく行われる。逆に、昼をImbiss(ファストフードの立ち食いスタンド。カウンター席やテーブルを備える店もある)の

Wurst mit Brötchen(パン付きソーセージ。所謂ホットドッグ)やKebab(トルコ風羊肉のサンドウィッチ)で軽く済ませる場合もある。私も、普段は大学の学生食堂(Mensa 後述)で昼食を取っていたのだが、Mensaが休業の時は、街へ出てKebabで昼食を済ませた。ドイツは第二次世界大戦後に陥った労働力不足を補うため、多数のトルコ人移民を受け入れ、彼ら及び彼らの子孫がどの街にも多く住んでいる(Residenz)。そして、彼らにとってKebabは手軽でおいしい昼食であり、あちこちにKebab Imbissの看板が目にとまる。ドイツでは勿論パンはBrötchenであり、特大の平たい丸パン(直径30 cm程度)に割面を入れて薄切りの羊肉のベーコンとたっぷりの野菜を挟み、そこにヨーグルトベースのソース(注文時にソース無しも選べる)をこれまたたっぷりかけてもらって、豪快にほおばると、何とも幸せで懐かしいうまさなのだ。おっと、勿論、トルコ風スープも合わせて注文する事を忘れてはならない。

   以上の様な食生活様式は、ドイツ人のあらゆる事象において客観的論理性を重んじる徹底した合理主義に基づいている。即ち、夕食を重視せず、昼食を重視するというのは、この後に労働することにより栄養及びカロリーが必要となるからこそ、昼食をたっぷり食べるのであり、逆に夕食は睡眠時には高栄養・高カロリーは不要だからあまり摂取せず、昼間摂取した分で賄えばよいという生理学的理論に基づいているからである。彼らの視点からすれば、日本人の中に時々見受けられる食生活パターン、即ち、毎晩夕食を豪勢に食べる一方で、朝食を食べずに昼はざるそばで済ますと言うような食生活は、理解できない非論理的なものとしか映らない。

   さて、私の普段の昼食は、もっぱら大学の学生食堂(Mensa)で済ませた。学生食堂と言っても、私が経験した日本の大学生協食堂岐阜大学や京都大学等の生協食堂。ちなみに、生協が入っている大学では、学食などという軽薄な呼び方はしない。生協と呼ぶ)とは、かなり趣が違う。先ず調理人が山高帽をかぶったMeister、いわゆる、レストランのシェフクラスの者なのである。当然、定食(Menu)は、毎日その内容が異なり、しかも日本人が想像するドイツ料理ではなく、どちらかというとフランス料理的なものばかりなのである。ただし、肉食のMenu I(定食I)かベジタリアン(魚料理も含む)のMenu IIの選択枝しかない。あるいは、どちらも気に入らない場合は、常設コーナーに Wurst Eintopf mit Brötchen がある。この3つの選択枝しかない。私は、毎日、Professor Dr. Georg HerttingDr. Vladimir Dolezal との3人で食事を共にした(時々この中に Professor Dr. Rolf Jackisch とその大学院生たちが加わることもあった)。

   私と Dr. Vladimir Dolezal は、共同研究をしていたので、1階(Erdgeschloß)の同室に机を並べ、私は午前中は実験データの整理や論文執筆・読破などを行い、午後から2階(erste Stock)のLaboratorium(実験室)へ行って培養細胞(ニワトリ胎仔神経節細胞)を用いた実験を行うという毎日であった。毎日午前11時30分きっかりに Professor Dr. Georg Hertting が、2階の教授室から私たちの研究室のところに降りてきて「Shall We Go?」と言って、薬理学研究所から緑に覆われたキャンパスの中を抜けて100 mほど離れたところにあるMensaに出かけるのである。この時間にMensaは開いたばかりなので、未だ行列の長さがさほどではない。学生達と共に1列に並び、配膳口へ向かう。やがて自分の順番がやってくると、配膳係のおばちゃんが大きな目でこちらをギロリと睨み、「Nächste? 次は?」と聞いてくる、私の答えは、決まっている。「Eins Bitte! 定食(Menu) Iお願い」。すると、おばちゃんは、特大プレートにこれまた超てんこ盛り本日の肉料理、スープ(必須)、サラダ、ジャガイモ料理(またはライスまたはパスタ)、デザートを盛りつけ、この時だけ、にこりと微笑んで「Bitte Schön! Guten Appetit! さあどうぞ!召し上がれ!」と言って手渡してくれるのである。20年以上も昔の話なので各々がどのような料理であったか詳細は忘れてしまったが、ともかく、日本ならば一流のフランス料理店に匹敵するような、デザートまでついたフルコース料理が、しかも大量に盛りつけられてあったのは間違いない。しかも、毎日その内容はデザートに至るまで異なっていた

   さて、テーブルに着席して、毎日Dr. Vladimir Dolezalがにこやかに声をかける「Have a good appetite!」。さしづめ、日本の「頂きます」に当たる言葉である。ドイツ語では、冒頭でも述べた「Guten Appetit」。フランス語では「Bon Appetit」。イタリア語では「Bon Appetito」であり、全て同じ言葉である。但し、Dr. Vladimir Dolezal(チェコ人。彼は米国にも留学経験がある。現在、チェコ科学アカデミー生理学研究所神経生化学部門部長・主任教授)の言う、「Have a good appetite!」は、英英辞典にも載っておらず、彼自身の造語かもしれず少々怪しげなのだが。ともかく、このMensaでの食事は毎日の楽しみでもあり、驚きの連続でもあった。

 

    Freiburg im Breisgauはかの有名な黒い森Schwarzwald)の中心都市でもあり、そのSchwarzwaldの自然環境保全は実に徹底されている。

 80年代の後半は、深刻な酸性雨の被害により立ち枯れとなる木々が相次ぎ、一時危機的状況となった。ところが、ここからのBaden-Würtemberg州政府およびドイツ連邦政府による迅速かつ的確な施策および市民の努力がすばらしい。徹底した車の排ガス規制(例えば、信号待ちは全てエンジン停止であり、バスも停留所で必ずエンジン停止をする)や、植林を行うのは勿論、Freiburg im Breisgauでは、街の中心部への車の乗り入れを禁止し、京都を始めとして日本ではとっくに廃止となった路面電車(Straßenbahn)の路線の拡充は勿論、車両を低床化した新型車両を取り入れたりした。また、ゴミの分別回収およびリサイクルを世界に先駆けて徹底化したりした。こうした官民一体となった努力が直ぐに結実し、私が滞在した90年代前半には、早くもSchwarzwaldはその名に恥じず、黒々とした深い森の姿を取り戻していたのである。Freiburg im Breisgauは、環境首都として、世界的に有名であり、各種著作本が日本でも出版されているので、詳細はそちらに委ねたい。

 このSchwarzwaldには、サクランボ(Kirsch)、ラズベリー(Himbeere)、ブルーベリー(Heidelbeere)、ブラックベリー(Brombeere)等の果実類やキノコ類が豊富に群生し、様々な鳥類は勿論、熊や鹿やウサギなどの動物たちも大切に守られている。一方で、鹿肉は、くせがなく美味であることが知られており、毎年9月から冬の間だけ、Schwarzwaldでも鹿を一定数狩猟しても良い、即ち、狩猟解禁期間となるのである。従って、9月から2月頃にかけてMensaにおいても、この鹿肉のステーキがしばしば登場した。確かに脂身も少なく癖のない味であったことは今でも覚えている。また、この時のデザートは大概Schwarzwald名物のSchwarzwälder Kirschentorte(サクランボのケーキ)やラズベリー(Himbeere)のムースであり、甘い物はあまり好きではない私にとっても大変美味であった。

 ところで、この高級フランス料理フルコースの様な食事が1食いくらだと思います?私が最初に驚愕したのがこの価格であった。何と!1食2 マルク 50ペニッヒ(当時の換算で約150円)なのだ。こんな価格日本の大学生協食堂でもあり得ない!20年前の価格だが、現在でもさほど値上がりしていないと聞いた。

 ちなみに、ドイツの大学は全て国立大学であり、学費は無料である。どこぞの国のように、国家財政が逼迫したからと言って、真っ先に国立大学を独立行政法人化などと言う美名をお仕着せて切り捨てる様な、国家百年の大計を見誤ったような短絡的愚策は、ドイツの為政者は決して行わない(おそらく考えもしていない)

 

  少し本題から外れるが、上記のMensaでの行列は勿論、郵便局での手紙を出すとき等や、あるいは、鉄道駅や市の交通局で切符(Fahrschein)や定期券(Regiokarte)を買い求めるために行列に並ぶ際、ドイツ人は皆行儀良く並び割り込む姿など見たことがない。偶々見かけたとしても、おそらくドイツ人以外の旅行者であり、私は3度ほど見かけたが、いずれも浅黒い肌の中東からの旅行者の人たちか、もしくは、中国人旅行者の様であった。この時、私の前に並んでいた人が振り返り、苦笑しながら目配せしてSchade(しょうがないね)と言っていた。勿論、前の人が切符を買い求めるのに手間取って相当待たされることになっても、皆おとなしく待っている。

 何故こんな事をわざわざ記述したかと言えば、最近読んだある有名(?)な日本人ジャーナリストのドイツ紀行文の中で、ドイツ人は行列を守らず、割り込みをすることは日常茶飯事であり、郵便局などでもしょっちゅう平気で割り込みをする(!?)。さらには、彼の筆者のイタリアでの経験談(たった1回!)によると、他人を肘でごりごり押しのけてまで行列に割り込みをしていたのはドイツ人(?)であり、英国人やフランス人やイタリア人(!?)は皆行儀良く並んでいる等と書かれていて、唖然としたからである。彼は、その紀行文の中で、ある人が切符を買い求めるのにもたもたしたりすると、後列に並ぶドイツ人達が舌打ちしたり、悪態をついたりすると記述したりもしている。まさしく開いた口が塞がらない低次元の偏見に満ちた戯れ言である。

 Freiburg大学(Albert-Ludwigs Universität Freiburg)は、ドイツ語圏ばかりか、世界でも有数の歴史を誇る名門大学哲学者のハイデッカーも出身者であり、ノーベル医学生理学賞受賞者も何人も輩出している)であるから、行列割り込みなどする低レベルの人間は皆無なのは当然であっても、Freiburg以外の街(例えば、Berlin、Bremen、Ulm、Sttutgart、Würzburg、Frankfurt am Mein、Mannheim、Aachen、Lübeck、Dresden、Hamburg、Mainz、Karlsruhe等の都市)の駅や郵便局で、僭越ながら、その様な経験を私はしたことがない

 彼のジャーナリスト氏は、ドイツ語も堪能で特派員経験を有し、ドイツ滞在歴も長いそうだが、一体何を見てきたのだろう?遺憾ながら、以前から私が何度も指摘してきた様に、日本のマスコミ、ジャーナリズム関係者の多くは、この様に、貧弱な批判的論理的思考能力しか持ちあわせず、それを恥ずかしいとも思わずに反省することもなく、ろくに勉強もしないまま、及びまたは、十分な数学的科学的検証もしないまま、狭矮で浅薄な非科学的経験論のみに基づいた間違いだらけの文章を公共に垂れ流して厚顔無恥でいられる人たちが殆どである。特に医療関係を取り扱うマスコミの横暴・低劣さは目を覆いたくなる惨状である。新聞に出ていたからと安易に信ずることは止めた方がよいと、再度ご忠告申し上げたい。

 

 話は戻って、Mensaでの昼食後、昼からの仕事の前に3階(zweite Stock)の会議室に集まりコーヒーブレイクである。そこでの会話の話題は、以前述べたように、政治、歴史、Fussball(サッカー)、オリンピックなどである。私に対しては、日本の文化・気候・風土的な質問を良く受け、彼らにとっては、まさに異次元の世界の出来事のように聞こえたに違いない。それはともかく、ドイツのコーヒーは凛として香り高く気品にあふれ、正しく絶品なのである。田舎町のKaffeに入っても、あるいは、易い民宿並みのホテルでも、出されるコーヒーは間違いなくうまい。豆の違いもあるかもしれないが、おそらく、ドイツの水(硬水)のおかげなのではないだろうか。Professor Dr. Georg Herttingが、「世界一最悪にコーヒーがまずいところは、米国と日本だ」とけなしていたが、同意せざるを得なかった。

 教授は米国のHarvardUniversityNIH(米国国立衛生研究所)で5年以上研究していた経歴があり、しかも、日本文化に精通した親日家でもある。実際、幾度となく来日もされている。また、Kaffe発祥の地Wienの出身だから、なおさら日本や米国の「薄っぺらいコーヒー色の飲み物」には辟易としていたに違いない。ドイツを含めた欧州の水については、又の機会で述べたい。

  ドイツ人の国民食として忘れてならないものがある。それは、Spargelホワイトアスパラガス)である。毎年Ostern (復活祭)の終わる頃、即ち、春の訪れと共に市場に出回るようになり、家庭の食卓に並ぶのは勿論、レストランとかでも、店頭に本日のお勧め料理(Heute Empfehlung)として、誇らしげにSpargelの文字が躍るようになる。旬は、5月から6月にかけてであり、調理法としては、皮を剥いて茹でたものに色々なソースをかけて食べるのが一般的であるが、スープにして食べることもある。日本で言えばさしずめタケノコあるいはふきのとうくらいか。しかし、日本人の中でもタケノコやふきのとうを嫌う人はいるが、Spargelを嫌うドイツ人は皆無である。例えば、この時期に運行しているルフトハンザ航空便の機内食には、Spargelが供されることが多く、機内アナウンスでその旨が告げられると、乗客のドイツ人は皆、陶然とした顔になったり、歓声を上げる者すらいるくらいなのである。何故これほどまでにドイツ人に好まれるのか。それは、ドイツの気候を考慮すれば明らかである。ドイツの冬はあまりにも厳しく、永遠とも思えるほど長く続き、日差しも弱々しく、日照時間も6時間程度しかない。従って、Spargelを食べることにより、ドイツ人は、やっと長くて暗い冬から解放され、間もなく光あふれる夏が到来すると言う喜びを実感できるからに違いない。私が子供の頃は、ホワイトアスパラガスは、缶詰でしか見たことがなく、ドイツに滞在して初めて分かったのだが、ドイツのような冷涼な気候でしかこの品種は生育しないからなのだろう。事実日本の缶詰は欧州の気候に最も近い北海道産である。私がFreiburg im Breisgauに最初に到着した5月は、丁度このSpargelの旬の時期であり、Münster(大聖堂)前のRestaurantで到着後最初に食べた料理がSpargel mit Holländische Soßeホワイトアスパラガスのオランデーゼソース(卵黄、バター、酢で作る、マヨネーズに似た温かいソース)掛け)であった。一緒に飲んだWeizen Bier小麦から造ったビール。南ドイツにしかない)と共に、今でも鮮烈な印象として心に残り忘れることができない。

  ドイツの国民食と言えば、やはり、Wurst(ソーセージ)は外すことはできない。但し、その種類は驚異的とすら言え、町々で独自の種類があるほどである。日本で有名なフランクフルトソーセージはFrankfurter Wurstのことである(但し、日本の物は実物とは似ても似つかぬが)。味わいも日本のものとは比較対象にならないほど美味であり、ドイツに滞在した経験のある者は、日本のソーセージは化学薬品の臭みが鼻について食べられなくなる。上述のImbissWeihnachtsmarkt(クリスマス市場)の屋台で売られている焼きソーセージ(Bratenwurst)で最も多いのは細身のNürnberger Wurstであり、2,3本まとめてかぶりつくのが常套的食べ方である。その次によく見かけるのがTüringerWurstで非常に大ぶりで1本で十分満足する。もう一つ、私が気に入っていたWurstは、第1回のドイツ事情の時にも紹介したドイツ南部特有のWeiss Wurst(白ソーセージ)であり、茹でるのが標準的調理法(Bockwurstという。Frankfurterもこの部類)だが、変則的ではあるが焼きたてをほおばるのも、絵も言えぬ美味なのだ。又、後述するビールと同様、日本のように寡占的なメーカーによる生産ではなく、町工場あるいは個人商店での手作りに近い形で生産しているので、多種多様で各々味も異なるのも半ば当然と言えるのだ。Wurstだけではなくハム(Schinken)についても同様である。Schinkenにも、大きく分けて2種類ある。生ハム(Rockschinken)と火を通した普通のハム(Gekochterschinken)である。生ハムで最も有名なのがSchwarzwalder Schinkenであり、勿論、Freiburg im BreisgauならばHertie(ドイツ大手のデパート。96年に更に大手のKarlstadtにフライブルク店は売却された)の地下食料品売り場や町中のスーパーマーケットに行けば、簡単に手に入った。塩がきついため薄く切らないとおいしくないが、反面非常に日持ちがする。一方の火を通したハムにも実に様々な種類のハムがあり、見た目は日本のロースハムと大差ない様に見えるものもあるが、実際口にすると上品でみずみずしい香りが口中に広がる。ともかく、WurstSchinkenBierとの相性は抜群である。

  ところで、フランス人とドイツ人は歴史的・地理的因縁から概して仲が悪く、お互いの生活習慣や食生活を揶揄しあったりもする国にしても個人にしても、隣人同士の仲が悪くなることは、ある意味人類の必然的現象として仕方がない事ではあるが、日本人の浅薄なフランスびいきの人たちが、ドイツ料理やドイツ文化をけなしたりするのは、見当違いも甚だしい部外者の戯言と言わざるを得ない。事実、意外と知られていないのだが、フランス人はビールとWurst、さらにはジャガイモが大好きなのである(しかもジャガイモ以外はドイツ製(産)か、もしくは、ドイツ製法によるもの)。Parisをはじめ、Strassbourg(ドイツ語ではStraßburg)やLyonなどのフランスの都市を歩けば、昼下がりのカフェのオープンテラスでビールグラスを傾ける男女をよく見かける

 元々、フランク王国の開祖であるカール大帝(Karl der Große フランス語ではCharlemagneシャルル・マーニュ。Aachen(フランク王国の首都)の大聖堂Münsterに祀られている)の死後、その3人の息子がそれぞれ分割統治することになった国が、フランス、ドイツ、イタリアの起源であるので、食べ物の嗜好もさほど変わらない隣同士の親戚に当たるからこそ、お互い仲が悪いのである。なお、カール大帝は、征服した広大な領土(現在の西ヨーロッパの大半を占める)を効率よく支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(ComesGraf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともに、その世襲を禁じる等の現代にも通ずる地方分権制に基づく中央集権政策を行う一方、道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの万民に対する善政を行っており、その施策は実に先見性に富むものであった。そのため、現在でもなお「ヨーロッパの父」と呼ばれ慕われ(ドイツばかりでなく、フランスやベルギーにもカール大帝の銅像がある)、現代におけるEU統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称されることがあるほどである。

 さて、ビール(Bier)の話になると、語り尽くせないくらいである。先ず、ドイツのビールは、Wurstの場合と同様、日本の様に少数寡占的大メーカーの製造によるものではない。大げさではなく、人口数万人以下の、日本で言えば過疎地に近いような小都市にも、独自のビールメーカー醸造所(Brauerei)が存在し、各々独自の銘柄のビールの製造販売を行っているのである。従って、現在でもドイツ全体ではおよそ1,800以上のビールメーカーが存在しているのである(銘柄は6,000以上)。第1次世界大戦以前には、ビールメーカーは全国で数万を超えていたのだが、幾つか統廃合された結果、現在の数に落ち着いたのである。何故それほどまでにビールメーカーが存在するのかと言えば、これにもドイツ人の徹底した客観的理論に裏打ちされた合理主義が反映されているからだ。即ち、「ビールは、生き物であり、ビール工場の煙突の陰が落ちる範囲以上の外へ持ち出せば味が落ちる」と、彼らは考えているからである。従って、日本のビールのように遙か遠くの工場で作られて、列車や飛行機等で長期間かけて運ばれてきたビールは死んでいると彼らは見なし、決してその様なまがい物は口にしないのである。また、運搬手段や保存手段が格段に進歩した現在でも、店頭に並ぶビールの基本は瓶ビールのみであり、缶ビールは、一部の対米輸出用に生産されている銘柄を除いて、殆ど存在しない。つまり、缶詰にすれば、ビール本来の味と風味が損なわれるからだこの辺りにも、同じ合理主義と言っても、米国の単に面倒だから省略すればよいと言う、効率しか考えない非論理的合理主義とはずいぶん違うことが窺い知れる。さらには、ドイツには「ビール純正法」と言う法律が存在し、ビールの原料としては、麦芽とホップと水だけを使用し、それ以外の原料を使用してはならないと厳格に定められている。しかも、この法律は、何と16世紀のバイエルン国王によって制定されたものであり、500年以上も守り続けられているのである。従って、ドイツ人からすれば、日本の殆ど全てのビールは勿論、日本人が有り難がるベルギービール等はビールとは呼べないまがい物に過ぎないのである。

 さて、ドイツビールには大別して2種類のものが存在する。即ち、上面発酵(Ale Bier)か液底(下面)発酵(Lagger Bier)かの2種であり、前者の代表がAlt(日本風に言えば黒ビール)でKölnKölschBerlinBerlinerが有名である。一方、後者の代表がPilsnerPilsとも言う)やExportであり、ドイツビールの実に70%をも占めており、6,000以上存在する銘柄の大多数をこの種類のビールが占めている。これ以外に我がFreiburg im Breisgauを含めた南ドイツ特有のビールが、上褐の小麦を原料として作られたWeizen(上面発酵Ale)であり、濾過せずにわざと濁ったまま(酵母を残したまま)のタイプHefe)と、濾過して透明になったタイプKristall)の2種類が存在する。いずれにしても、このビールは、世界中どこを探しても南ドイツ以外には存在しない。

  レストラン等で供されるビールは、勿論、その地元メーカー(大都市などでは3社くらい存在するのはざらである)のビールであり、ビールグラスにはそのメーカーのブランドマークが刻印されている。更に、グラスの上部に線が付いていて、その横に0,33L(または3,3dL いずれも330mLのことで、ドイツを含めた欧州の数字表記は、小数点はピリオドではなくカンマで表記する。例えば、0,5L、あるいは、5dLという標記の時は500mLのことである。逆に6,000などの場合、欧州表記では、6.000となるので注意が必要。このあたりが米国との大きな違いである)と言う数値が印字してあり、本当にメスシリンダー等を用いて計りながら注いでいるのでは思わせるほど、きっかりその表示線のところに液面があり、その上は泡となっている逆に少しでも線から液面がずれていれば客に差し出さないし、万が一液面が表示線からずれたビールが差し出されれば(絶対にあり得ない)、申し出れば直ちに取り替えてくれる。この辺りにまでドイツ人の合理性は徹底されているのである。もう一つ日本との決定的な違いがある。それは、ドイツ人は決してビールを冷蔵庫で冷やさないと言うことである。我がFreiburg im Breisgauは南ドイツのため、夏の最高気温は30℃に達することもしばしばであるが、そういう夏日でも、湿度は20%にも満たない場合が殆どのため、木陰や屋内は涼しく(ドイツの一般家庭にはエアコンは不必要であり存在しない)、最低気温は10℃前後まで低下する。従って、太陽が沈んだ「夕方」10時頃(夏は22時近くまで空に太陽があり明るい)は、気温が16℃くらいになっている(京都の3月末の最高気温くらい)。この様な気候だから、夏でもビールを冷蔵庫で冷やす必要がないと言うこともあるが、それよりも本当の理由は、「飲み物を12℃以下に冷やすと味蕾(舌の味覚を感受する器官)が麻痺して正確な味が分からない」と言う、極めて正当な神経生理学的理論に基づいている。これは、Professor Dr. Georg Herttingから聞いた話だが、教授の様な専門家でなくても、老若男女を問わずドイツ人ならば皆この事実を知っているのである。まさしく驚くべき徹底した論理的国民性である。ドイツでは、「きんきんに冷やしたビール」は望めないと言うことは覚えておくべきである。

  さて、我がFreiburg im Breisgau(フライブルク)のビールメーカーはGanterである。フライブルクのどのレストランやKaffeに入っても、Ganter Bierが楽しめる。Ganter Pilsnerは、すっきりした喉越しだがあくまでも力強く、これぞドイツビールと言う味わいであり、Pilsnerと同系統でアルコール濃度が更に高いExport濃厚な味わいは日本では体験できない。一方、Weizenは上記の2種類があり、どちらもそれぞれ爽やかで忘れ難いほどの美味であるが、私は、特に濾過したGanter Weizen Kristallklarを好んだ。Weizenはドイツ料理は勿論、和食や中華料理にも良く合うので、是非日本のメーカーも製造して頂きたい(但し、事実上保存できないので飲食店のみでの供給となるだろうが)。

Bierの話は、まだまだ尽きないが、きりがないので次の話題としたい。

 ドイツはワイン生産の北限に当たるが、ローマ帝国の支配下に置かれて以降、いくつかのワイン用のブドウ栽培に適した地域でワイン生産が盛んとなり、現在に至るまで連綿と続いている。特にFreiburg im Breisgauの属するBaden-Würtemberg州Baden地方は、ワイン(Wein ヴァインと発音する)の名産地である。私は、Professor Dr. Georg Herttingの斡旋により、Freiburg im Breisgauの中心から5 kmほど郊外にある、Merzhausenと言う小さな村に住居(Wohnung)として1軒家を借りたが、この借家はなだらかな丘の麓近くに位置していて、その丘1面がブドウ畑であった。勿論、全て白ワイン用のブドウである。ドイツワインと言うと、殆どの日本人が想像するのが、Mosel-Saar-RuwerRheinhessen辺りの甘口白ワイン(Lieblich Weiss Wein)であり、20年ほど前、日本の某メーカーがテレビのコマーシャル等で、ドイツで最もよく飲まれているワイン、Madonnaと、盛んに宣伝していたことをご記憶の方も多いかと思う。このMadonnaは、Mosel Weinの一つの代表とも言うべきもので、確かに、その系統のワインでは、一番かどうかは別として、有名なのは事実である。しかし、酒好きには、甘ったるくて料理に合うとは言い難く、フランスのシャブリ等の辛口白ワインの方が、やはり料理との相性がよいのは事実である。従って、某メーカーの宣伝に乗せられた一般日本人は、「ドイツワインは料理にはちょっとねぇ」と、誤解を抱いたままとなってしまう。ところが、ドイツにはシャブリと同等以上の美味な辛口ワイン、否、世界一の極上白ワインが存在するのである。それが、Baden Weinなのだ。Baden Weinには、Riesling、Gewürztraminer、Müller-Thurgau、Ruländer、Silvaner等のブドウから作られた数種類の白ワイン(Weiss Wein)が存在し、全て基本は辛口(Trocken)で、どれもとてつもなくうまい。中でもSilvanerのスパイシーで透き通るような爽やかさは、フランスのシャブリに決して引けを取らない(個人的にはSilvanerの方が勝っていると思う)味わいである。また、各々のWeinにスパークリングワインがあり、これをドイツ語でSektと呼ぶ日本では、フランス製の高級シャンパンがもてはやされているが、コストパフォーマンスから言えば、断然Baden Sektの方が上である味も香りも決してひけを取らないのに価格は10分の1以下である

 

 私がフライブルク大学薬理学研究所で研究を始めて約1ヶ月ほど経った時の午後4時過ぎくらい(まだ真っ昼間である)、大学院生のPeterと研究助手のFrau Angilikaが、その日の実験が終了した頃を見越して私に声を掛けた。「ケン、君の歓迎会のミニパーティをするから来ないか?」と、2つ返事で3階のセミナー室へ行くと、もう既に飲み始めている数人と共に、Baden Sektで乾杯となった。これが、私のBaden Sekt初体験の日である。彼らの人なつっこい笑顔と、異邦人を躊躇無く仲間としてもてなしてくれた思いやり、そして、その日の衝撃的なまでのうまさのBaden Sektは、今でも懐かしく思い出される。

 残念ながら、これらの愛すべきBaden WeinおよびSektは、生産量がそれほど多くないこともあるため、全てドイツ国内、しかも、殆ど現地Baden地方のみで消費されるため、他国では無名の存在となってしまっている。最近は東京や京都を初めとして、日本各地で世界のワインを販売する店が増え、容易に各種ワインを入手できるようになった。しかしながら、Baden Weinは、やはり、この様な店でも殆ど見かけることはない。仕方が無いので、私は、こういう店では、Franken WeinかAlsace (Elsaß) Weinを探して買い求める事にしている。前者は、Würzburgを中心都市としたBayern州北部地方で生産されるワインで、山羊の睾丸を模したずんぐりとしたボトル(Bocksbeutel)で有名なため、見かけた方も多いと思う。その味わいや使用してるブドウの品種もBaden Weinに非常に近い後者は、Baden 地方とライン川(Rhein)を挟んで西隣に位置し、Strassbourg(ドイツ語ではStraßburg。Freiburg im Breisgauから60kmほど西北に位置する。京都―大阪間くらいの距離)を中心都市とするフランス最東部地方で造られるワインである。従って、政治的な土地区画は別として、地理的にも、気象条件や土壌は、ほぼ同一の同じ地域と見なされるから、当然出来上がるWeinは、Baden Weinと兄弟みたいなものである(Alsace(Elsaß)地方に対する独仏の歴史的因縁については、それだけで長文になるので、敢えて触れないことにする。但し、今やここはEUの中心的地域となっていることと、この地方で使用されている方言、アルザス語が、フランス語よりもむしろ極めてドイツ語に近いことは、認識しておくべきだと思う)。この2系等のワインは、日本でも容易に入手できるので、是非一度お試しになられることをお勧めする。

 今回、食の話になるとつい長文を書き連ねてしまったが、ドイツの食事情で特筆・強調すべき事は、日本とは比較にならないほど食料品の物価が安価であると言う点である。酒類を含めて、日本のスーパーの特売値よりも更に安い値段が通常価格と言って差し支えない。例えば、ビール1本(330 ml)は日本円換算で20-30円くらいであるし、ジャガイモやトマトなどの野菜類は1kgで30-100円程度である。勿論、ドイツにも、日本の消費税がモデルとした付加価値税Mehrwersteuer。省略してMwStと言う税金があり、私が滞在していた頃で12.5%もの高い税率であった現在は19%)。では、何故、この様な高い税率の付加価値税が存在するのに、食料品は驚異的に安いのであろうか?答えは、付加価値税が成立当初から分離課税だからである。衣料品を含め他の商品に一律課される付加価値税が食料品や医薬品には課されない、即ち、無税なのである。生命維持に関わる必需品(第1回ドイツ紀行参照)に税金をかけるなどの蛮行はドイツの為政者は考えもしていない。今からでも遅くない。日本の消費税も分離課税にすべきであるのは疑うべくもない。是非再考をお願いしたい

 

 さて、あれこれ尽きぬ話題に、つい、長文化してしまった。おっと、早く食べなければせっかくのBohnen Eintopfがまずくなってしまう。車窓を流れゆくドイツの美しい風景を眺めながら食すると、又一段と格別の味わいである。さあ、支払いをして席に戻るとしよう。ここで注意が必要。支払いは集中レジではなく、最初に注文を聞いてもらった給仕に直接支払うのだ。

Es hat sehr gut geschmeckt! Danke schön!(大変おいしかったよ。有り難う)。Bitte schön. Schöne Reise und Wochen Ende! Tschüß (どう致しまして。良いご旅行と良い週末を!さようなら)。また、次回をお楽しみに。

 

写真

#1. フライブルク中央駅(Freiburg i. Br. Hauptbahnhof)に停車中のICE  DBのホームページから引用

#2. フライブルク中央駅(Freiburg i. Br. Hauptbahnhof90年代前半の外観 DBのホームページから引用

#3. 市民公園(Stadtgarten)から望む大聖堂(Münster) 93年5月23日 Canon F-1 New FD 85mm/f=1.2

#4. フライブルク大学Mensa(小川の向こうのモニュメント後ろに建つ建物)94年3月21日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#5. Schwalzwald 93年頃に購入した絵はがきから

#6.  Basel Dreiländereck, Switzerland スイス・バーゼルのライン川岸に建つ三国(スイス、ドイツ、フランス)国境の印(94年に改装された) 95年10月3日  Canon F-1 New FD 24mm/f=2.0

#7. Merzhausenのブドウ畑 遠景はFreiburg i. Br.市街 93年7月20日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#8. Merzhausenの借家の前で 95年10月2日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#9. Pharmakologishes Institutの仲間と 私の隣に写っているのがAngilika Schobelt 95年10月1日

#10. 同上  Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#11. Würzburg 旧市街(Alte StadtMarienburg Schlossから望む 93年8月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#12. Würzburg Residenz(世界遺産) 93年8月1日 Canon F-1 New FD 35mm/f=2.0

#13. ColmarAlsace第2の都市)Petit Venice  93年8月14日 Canon F-1 New FD 50mm/f=1.4

#14. MulhouseAlsace第3の都市)Cathedral 93年10月2日 Canon F-1 New FD 20mm/f=4


Schwabentor, 1993年11月 大変遅くなりましたが、2回目の紀行です。今回もドイツのお話しから始まります。

 この項を記述している現在、秋も深まり、そろそろ冬の訪れを感じさせる様になりました。

各地で紅葉が見頃を迎えています。

 ドイツでの秋は(日本の本州関東以西出身の人間にとっては)、通例8月半ばから始まります。8月半ばを過ぎると、最高気温は高々20℃程度、最低気温は10℃前後まで低下し、8月にセーターは愚か、ジャケットを着込んでいたこともありました。黄葉(ドイツではカエデ系の樹木があまり見られず、紅葉ではなく黄葉一色です)は、9月に入った途端に始まり、10月になれば、落葉と落ち栗(実は殆どマロニエの実で食べられません)が道を埋め尽くします(もっとも、朝の通勤時に観られた落葉と落ち栗は、夕方帰宅時には、市の清掃職員の手によって一つ残らず除去されています)。また、本当の栗を蒸気機関車を模した屋台車で焼き栗にして販売する姿が、街角のそこかしこに出現する様になります(ちょうど日本の焼き芋の屋台販売に似ています)。落葉と落ち栗の季節が終わる10月末頃、暗くて長い冬がもうそこまで迫っています。

 

 私がフライブルク大学薬理学研究所(Institut für Pharmakologie und Toxikologie des

Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)に招かれて留学滞在したのは、1993年から1995年にかけてのことで、早20年以上の時間が経過してしまいました。

 当時ドイツは東西統一が成就して未だ3年ほどしか経っていない、やや混沌とした時でした。その様な政治的事情が影響したため、ビザの発給が遅れ(医師の外国人はそのまま定住される懸念があるから)当初予定していたより1ヶ月以上遅い、春たけなわの5月に現地に到着しました。

 ただし、5月でも未だ最高気温は20℃に届かない位であり、夜になれば10℃前後まで下がる、日本の関東以西で言えば3月下旬から4月上旬の気候でした。それでも、長い冬を漸く脱し、光あふれる季節になったその時期を人々は大いに享受していました。私がまず最も感銘を受けた光景は、空一面を覆い尽くすタンポポの綿毛でした。2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会での試合中継でも、しばしば競技場の空を覆い尽くすように飛び交うタンポポの綿毛が写しだされていたことは記憶に新しいことです。私の幼少期でも、このような光景を日本で見た記憶はなく、まさに初体験なのに、何故か愛おしい位の懐かしさを覚えました。

 

 また、私が滞在した頃はEU自体も発足して未だ年月が浅く、EUの公用語が英語とフランス語と言っても、

Freiburgでは殆どがドイツ語のみの世界でした。一方、私が所属したInstitutにおいては、

教授Professor Dr. Georg Herttingがオーストリア人、同僚として共同研究を行ったDr. Vladimir Dolezalがチェコ人、と言ったように、欧州各国から多種多様な人材が集まっており、当然のように英語をCommon Languageとしていました。ただ、私が滞在中の頃は、他の研究室をも含めて、大学内においては、日本人を見かけることはありませんでした。

   従って、当然Communication Languageは大学内では英語、街へ出ればドイツ語という生活になりました。 

 もっとも、私の元々の希望がなるべく日本人のいないところでしたので、生活様式や慣習はおろか、デパートや店舗での買い物、あるいは、鉄道、路面電車、バス等の公共交通機関の利用の仕方に至るまで、まるで日本の常識は通用しないことに、当初かなりの戸惑いを覚えはしたことを差し引いても、なお、まさしく希望通りで実に晴れやかな気分でした。

 

 それらの違いにも慣れた頃、ある不思議な体験を、しかも、1回ではなくほぼ毎日経験するようになりました。

 街をいつものように歩いていたり、あるいは、Bus Haltestelle(バス停留所)でバス待ちしている時などに、頻繁に道を聞かれたり、「どこそこ行きのバスはどこから出るの?」とかを、勿論ドイツ語で尋ねられるようになったのですしかも直ぐそばに明らかにドイツ人と思われるような人がいても。私は、当初非常に戸惑いを覚えました。日本で、日本人が日本人以外(明らかにそう見える、所謂ガイジン)の人に道を尋ねるでしょうか(しかも臆せずに日本語で)?

 そのことをある日Institut Secretary(教授秘書)のFrau Breisacherにこう尋ねてみました。「どうして、みんな僕に道を尋ねるのでしょう?」

 この問いかけに対する彼女の答えに、私は強い衝撃と感動を覚えたことを今でも忘れません。

「Freiburgには多くのTouristが訪れるから、貴方のような現地人(Resident)に道を尋ねた方が正確な答えが得られる確率が高いでしょう」と、透き通るような蒼い目に笑みをたたえながら、「そんなに不思議なことなの?」と、逆に私に問いかけるように彼女は即答したのです。

 

 ドイツ語にも外国人(Ausländer)と言う単語は勿論ありますが、この言葉が通常使われることはありません。例えば、Freiburgにも外国人登録管理局(Ausländersamt)とういう役所があり、私も現地到着時に、

Frau Breisacherに案内されて、そこで外国人登録を行いました。この様に、政治行政上や法律上では、このAusländerと言う単語は書類上必要なため、よく用いられています。しかし、日常生活では、敢えてこの単語を口にすることは憚られているのです。何故ならば、ナチスドイツ時代の暗い記憶を呼び覚ます、人種差別主義に通ずる用語であることが大きな理由ではあるのですが、ドイツに限らず、他のヨーロッパ各国においても、ほぼ共通に「外国人」と言う単語は、日常会話で用いられることはありません。即ち、このような単語を口にすること自体が、卑しい行為であり、自らの教養のなさを露呈しているのも同然だからなのです。

 従って、彼女の答えも、当然教養のある人間の至極常識的発想から生じたものだったのです。換言しますと、欧州での常識は、「人間には、2種類しか存在しない。それは、旅行者か居住者(Tourist or Resident)である」と言うことなのです。

 

 翻って、ここ日本ではどうでしょうか。言うまでもなく、殆どの日本人の常識は、未だに、「人間には、2種類しか存在しない。それは、日本人か外人である」です。

 

 生物学的に考察しても、現在の地球人類の人種は、クロマニョン人(および約50万年前にクロマニョン人から派生したネアンデルタール人との混血)を祖先とするホモ・サピエンス1種類しか存在しません。全ての人類は、DNAにおいても、勿論完全に同一であり、肌や瞳の色の違いや体格の相違は、DNAの命令に従って生成されるアミノ酸の量的相違から生じているものに過ぎません。ちなみに、犬も単一種(即ち、チワワもセントバーナードも同一種)です。そもそも、ある高等生物において外見的相違を認めた場合、それが、同種か異種かに分かれる生物学的絶対的基準は、「交配して繁殖できる(同種)か、そうでない(異種)か」なのです。従って、それを知ってなお、多人種は存在すると主張されるならば、「異種交配」、即ち、ケニア人と日本人との間にも普通に健常な子供が生まれるのは、どうしてでしょうか?

 

 当ホームページでも、何度も詳細に述べていますが、ワクチンや薬に対する誤解や風評被害、あるいは、2011年の「偽マイコプラズマ肺炎大流行騒動」の様な馬鹿げた事件(次項参照)が日本だけで頻繁に、殆ど年中行事のように繰り返して起きる根本的原因は、この認識の差が大いに関係していると、考えて差し支えないでしょう。

 

 勿論、ドイツを含めた欧州でも、時々所謂「人種差別主義」に基づく事件は起こります。私が滞在した当時、ネオナチスの活動が活発となり、渡欧直前頃から、日本の新聞各紙もこの話題を取り上げることが頻繁に目立ちました(私の渡欧前、私の親や友人は、この一連の報道を目にして私の身を案じてくれたりしていました)。特に、1992年Berlinのトルコ人が多数居住する地区に対してネオナチスが放火等をしかける暴挙を行い、多数の死傷者を出したと言う事件は、日本で大きく取り上げられたものです。ところが、私の滞在中(それ以降も)、Freiburgは勿論、多国籍の雑多な人間の集まるBerlinHamburgにおいてすらも、一度もそのような事件は起こりませんでした。さらには、町中でその様な暴徒が大音声を張り上げて練り歩く姿や、街宣車でがなり立てながら走る姿などに遭遇することは勿論、実際にそれらしい人にお目にかかることですら一度たりともありませんでした。

Herz Jesus Kirche否、一度だけ、興味深い落書きを目にしたことがあります。FreiburgDBDeutsche Bahnドイツ鉄道、1992年にドイツ国鉄Deutsche Bundesbahnから民営化されました)の中央駅(Hauptbahnhof)をまたぐ陸橋の西側の欄干に、こう記してありました

Fuck the Fascism(くたばれファシズム)」。この橋のたもとには、ロマネスク様式の清心イエズス教会(Herz Jesus Kirche)があり、1992年頃までは、ネオナチスが集会に用いていたと聞き及んでいます(1993年までに彼らは主として市民の力により一掃されました)。私の滞在中のネオナチスに関する体験はこれだけです。

 ここでも、日本のマスコミが、有る事件や問題に対して報道を展開した後、事件のその後についての詳細な検証を常に怠る軽率さを改めて感じた次第です。

 

 どうして、ここまで認識の差が生じるのでしょうか?答えは勿論、一つではありませんし、日本人が安易に口にする、「日本は島国で単一民族国家だから」という考えは、全く的外れで答えにはほど遠いものです。主たる原因は、幼時から他人との関わりにおいて、会話を徹底的に行うことにより、論理的思考能力を養うと言うことが慣習化していることにあると考えられます。そして、勿論、論理的・科学的に思考する能力を養う教育も徹底していることも大いに関係しています。彼らは、Coffee Breakの時間でも、歴史や政治の話題で熱く討論を繰り広げることが当たり前になっており、誰も芸能界の話題などを口にする者はありません(サッカーFußballとオリンピックの話題だけは別ですが)。従って、この様に論理的・科学的に物事を判断する事が慣習化していればこそ、大多数の日本人の様に、たった4つの血液型(ABO式血液型は、1904年米国のLandsteinerにより赤血球上の特異的膜抗原として発見され、彼は、この功績により後にノーベル医学生理学賞を受賞しています。しかし、血液型はこの他にも、Rh式、Lewis式、MNSs式、P式血液型など無数の型が存在し、しかも、赤血球だけでなく、白血球や血小板にも特異的な型が存在するのです。即ち、人類の数だけ、あるいは、それ以上の数の血液型が存在するにも等しいのです)で人間を類型化できる等と言う、馬鹿げた非科学的妄想は、ドイツ人をはじめとした欧州人は勿論、日本人以外には誰一人として許容不可能な幻想です。

 

 話は飛ぶようですが、冒頭近くで述べた生活慣習・システムの違いにも注目すべきかと思います。例えば、デパートなどでの買い物も、日本で常識と思っていることが全く通用しません。ドイツでは、「閉店法」という法律があり、日曜及び国定祭日に営業してはならないと決められています。さらには、それ以外の曜日についても厳密に何時から何時までと営業時間が決められており、それを超えた時間帯に営業することができないのです。日本では、土曜日や日祝日の繁華街は、デパートは勿論、その他のショッピングモール等も人、人、人でごった返すのが当たり前ですが、ドイツでは、土曜日の夕方から月曜日の朝までは、RestaurantCaféを除く繁華街の各店は全て閉店しており、ゴーストタウンと化してしまいますEU統合に伴って各国と歩調を合わせる意味からも閉店法の全面廃止を求める声も一部にはありますが、カトリック教会が安息日に働くことに強く抗議し、労働組合側も、廃止すれば弱い労働者に負担がかかることは目に見えていると強く反対し続けているため、現在に至るまで全面廃止には至っていません。1996年以降、若干の規制緩和が認められ、中央駅(Hauptbahnhof)等には日曜日でも開いているコンビニが出現して、大いに驚きました。私の滞在中は、土曜日は午後2時(現在は午後4時半までに延長されました)にデパートも閉められてしまうため、一度ならずとも午後1時50分くらいに店内に滑り込んだ様な場合、店員が近寄ってきて、「もうあと10分で閉めるから出て行ってくれ」と追い出された経験が何度もありました。日本人には信じられない光景だと思います。店員たちは、顧客と対等の立場にあり、日本の様に決して「いらっしゃいませ」などと言う卑屈な言葉は発せず、店員と顧客はお互いに知人のように「Gutentag 今日は」「Auf Wiedersehen さようなら」と、挨拶を交わすのが礼儀です。「お客様は神様です」等という概念は、ドイツを含めた欧州では全く通用しません。「何それ?」と逆にしつこく質問されるのが

 

 公共交通機関の利用法も同様に、日本で常識と思っていることが全く通用しません。まず鉄道。上記のDBを初めてとしてSNCF(フランス国鉄)、BR(英国鉄道の欧州大陸へ向かう便のホーム)、SBB(スイス国鉄)、ÖBB(オーストリア国鉄)等、全ての欧州鉄道には、改札口がありません。駅の出入り口とプラットホームとの間には、何の境界もなく、素通りで列車に乗車が可能となっています。即ち、改札口が存在しないのです。だからと言って、切符を買わずに乗車すること、所謂無賃乗車は不可能です。何故なら、乗車して列車が走り出したら間もなく車掌がやって来て、「Ihre Fahrschein Bitte 乗車券を拝見します」と聞かれるからです(車掌たち、特にDBの彼らはすごく優秀で、どの駅で誰がどの車両に乗り込んだか瞬時に認識し、覚えています)。

 次に路面電車(Straßenbahn, Tram)や路線バス。こちらは、車両が停留所に停車して、乗降することだけは、日本と同じですが、その他は全くと言って良いほど違います。まず、乗車口と降車口は分かれていません。即ち、どこから乗車あるいは降車しても良いのです。次に、乗車券ですが、単回だけの利用ならば、乗車券をあらかじめ町中の交通局の販売所や主要な停留所にある自動券売機で買い求めておくか、運転手(英語は通じません)に目的地を告げて乗車券を都度購入するかのどちらかになります(私は定期券を持っていました)。そして、その乗車券を車内に数カ所設けられた改札機に通して有効化する必要があります。ここまでの作業を怠ると、時々乗車している私服の覆面検札官が、突然、

Ihre Fahrschein Bitte 乗車券を拝見します」とやってきて、もし無賃乗車ならば、60マルク(当時の日本円で6000円程度の価値。現在は40ユーロ程度)の罰金を支払わされるのです。これらの交通機関では、全て切符の回収はありません。だからどの口からも降車できるのです。ここまででも、日本のシステムに慣れきって、それが常識と思っていた者にとってはかなりの衝撃ですが、さらに驚愕するようなことがあるのです。犬が人間と一緒に乗車してきます。断っておきますが、盲導犬や介護犬ではありません。普通の飼い犬です。ラブラドールリトリバー、ゴールデンリトリバー、あるいは、セントバーナード等の中大型犬が中心ですが、ともかくも、普通に乗ってきて、座席の横等に大人しく座っています。実際、切符の裏面にも、以下の様な但し書きを認めます。「この切符で、大人1人の他、就学前児童2人と犬1匹まで乗車可能です」。欧州の人々にとって、犬はペットではなく家族なのです。だから、犬たちは公共交通機関の利用は勿論、レストランや百貨店に至るまで、どこでも自由に出入り可能です。ここまで自由にできる理由は、どの犬も生まれてから飼い主に渡るまで調教師に厳しくしつけられており、決してむやみに吠えたり、ましてや人を襲ったりしないからでもあるのですが。日本のスーパーの入り口等でよく見かける、「ペットの持ち込み禁止」の掲示を、日本語の読める欧州人が目にしたら、ひどく驚いて、こう叫ぶでしょう。「なぜ!犬はペットじゃない!家族だよ!」と。

 さらに、DBの車両に乗車しているドイツ人の子供達はおしなべて大人しく、日本ではよく見かける車内を走り回る姿など見たことがありません。ドイツ人は、犬と子供のしつけにすごく厳しいのです。また、DBの車両は、ICEInter City Express:DBの新幹線。最高時速320kmで走行する)ですら、4人掛け固定座席(2席ずつ向かい合わせ)が基本(しかも2等席には指定席が事実上ありません。1等は日本で言えばグリーン車です)なのですが、臨席や向かい席に座った場合、全くの初対面の相手でも、車中の会話を楽しむのがマナーでもあります。彼らは、空いている席を見つけたら、私にも、Entschuldigung, Ist dieser Platz noch frei?(すいません。この座席空いていますか?)と訪ねて来ます。Ja es ist ietzt noch frei, Bitte schön(ええ空いています。どうぞ)と、答えたら着席すると同時に会話が始まります。今でも印象深く残っている会話も幾つかありますが、強調すべき事は、私を決して「ガイジン」扱いせず、友人と同様に扱ってくれたことです。やがて、目的地が近づいて来たことを告げる車掌のアナウンスに促され、彼らは握手しながら、Schöne Wochenende & Gute Reise, Tschüß!(良い週末と良い旅を。さよなら(Tschüßは、友達通しで使う別れの挨拶。正式はAuf Wiedersehen「また再会するときまで」))と告げて去っていきます。彼ら(彼女ら)が、降車する際、前列に年寄りが大きなスーツケースを抱えていようものなら、すぐに近寄り、ホームまで荷物を運んであげます(鉄道の場合、日本のホームの様に車両の乗降口とホームが平行になってなく、階段を上り下りするからです)。ホームに降り立ったら、私に向かって思いっきり手を振ってくれることも忘れていません。

 もうお分かりかと思います。ネオナチを市民の力で速やかに無力化したこと、デパートの店員の対応、交通機関の利用の仕方、犬への扱い、子供に対するしつけ、車中での見知らぬ者同士の会話、そして、弱者へのいたわり。これらの一見何の関連もない様な事は全て、共通の概念に裏打ちされて生じているものです。

 即ち、自己および自己の価値観を絶対視・特別視せず、また他者と自分の価値観は常に均一なものではない事が当然で、多様な価値観が存在することを認める。そして、一方で、他者と自分との間に優劣の差はなく、他者も自分と同等の権利を有する個別な独立した存在であることを前提とした上で、決して差別化せず、常に自己と対等に考え尊重し、同じ社会を構成する友人として共存していく。更には、弱者に対して臆せず手を差し伸べることを忘れない。

「Tourist or Resident」の発想です。この対局にある発想が、「日本人か外人」であることは明らかです。

 かつての日本人も他者(日本人以外も含めた)への思いやりと言った美徳は兼ね備えていたはずですが、この様な美徳は、いつしか忘却の彼方に追いやられ、無価値化してしまいました。従って、あえてもう一度言います。

 

日本の常識は世界の非常識です。

 

 MUENSTER、1993年11月

 DBDeutsche Bahnドイツ鉄道)の車窓から眺めた四季折々の光景は未だに脳裏から離れません。大平原の中、小川に沿って整然と立ち並ぶニレの木立の中に落ち行く夕陽、黄色に燃えるひまわりの群生、そして秋になれば、延々と続く丘の斜面の畑にたおやかに実るブドウ、ミレーの「落ち穂拾い」そのものの収穫後の麦畑に点在する丸めた麦わら等々です。

 いつの日か、また欧州を訪れる機会を得たら、その時は、まず錆び付いてきたドイツ語に磨きをかけ直して、列車の旅をしたい。そして、臨席の人と会話をすることが今から何よりの楽しみです。Auf Wiedersehen!

 

次回は、誤解の多い、ドイツでの食についてお話しする予定です。

 

写真(上から)

1. SchwabentorFreiburg 南門)1993年11月

2.   Institut für Pharmakologie & Toxikologie(フライブルク大学薬理学研究所)

1994年3月 同研究所は、1999年にキャンパスの西部に建設された新館に移転し、現在は、他の研究所がこの建物を使用しています。

3.   Herz Jesus Kirche 1994年1月

4.   Heidelberg Altstadt & Neckar(ハイデルベルク旧市街とネッカー川)1993年6月


2011年8月頃から、幼児に限らず、学童から成人までの全ての年齢層の者を巻き込む肺炎(または気管支炎)が大流行しています。そして、この肺炎の多くに気管支喘息の症状が合併しています。

この肺炎の原因は一体何なのでしょうか?

先日、NHKがこの肺炎の問題を取り上げ、特集番組を放送しました。私は僭越ながら見ておりませんが(時間の無駄なので)、後日その報道内容を入手し、一瞥して唖然とすると共に、「ああ、またしても」という感想を抱かざるを得ませんでした。その報道の中で、彼らは、「原因はマイコプラズマ感染症またはRS ウィルス感染症」と勝ち誇ったように断定していた様です。

 

 

しかし、これは重大な見落としを含む余りにも拙速な判断に基づく完全な事実誤認、即ち、誤りです。

 

 以下に、何故これが誤りなのかを検証してみましょう。

 

 その前に、まずマイコプラズマ肺炎について、どのような疾患なのかを述べておきます。

マイコプラズマ肺炎は、小児の呼吸器感染症の中でも重要なものの一つで、以前から、オリンピック開催年に必ず流行する傾向があるため、「オリンピック肺炎」と言う、あだ名が付いていました

1992年以降、この傾向が崩れ、ほぼ毎年小流行するようになりましたが(その理由は大体の推察は出来ていますが、本題から外れるので敢えて述べません)、2008年の北京オリンピックの時は、アジアでのオリンピック開催のため、やはり、大流行しました(この時は、彼のNHKも含めて何故かマスコミは沈黙していましたが)

 マイコプラズマは分類上は細菌に属するのですが、他の細菌ならば存在する細胞壁を持たず、その大きさも一般細菌の1/5程度しか有りません。感染の成立は、感染者からの飛沫感染により、食道と気管支の分岐部である喉頭蓋よりも更に気管支側奥の細胞上皮に付着して感染が始まります。但し、この部位の細胞内にマイコプラズマが直接侵入して炎症反応を起こす事はありません(*脚注)。従って、咽頭扁桃炎のように、咽頭痛や嗄声は起こらず、視診上でも、咽頭発赤は認めません感染成立後、初発症状は乾性咳嗽であり、進行増悪すれば、湿性咳嗽に変化していきます。これは、当初は肺胞部で病変が始まるため、喀痰の排出がないためであり、病変がその上位の気管支に及ぶと喀痰排出が著明になるからだと病態生理学的に考えられています。また、さらに、特徴的なのは、上気道炎(気管支より上位での炎症。所謂かぜ症候群)ではないため、鼻汁・鼻閉は一切認めません(もし、この症状を認めたら、マイコプラズマ肺炎ではないか、もしくは、他のウィルスとマイコプラズマ肺炎との混合感染症と考えるべきです)。無治療の場合、平均11日発熱が続くことが認められています。好発年齢は、4歳から12歳程度の幼児〜学童期であり、特に、5〜8歳の年齢層に集中して発症が認められています。後述しますが、マイコプラズマ感染症は顕性(症状が出ること)・不顕性にかかわらず一生の間に繰り返し感染します。そして、一度強く顕性感染した後は、2回以上の強い顕性感染、即ち、肺炎に至ることは皆無と言っても差し支え有りません。このことは、12歳を超えた途端に発症率が急激に低下し、成人での顕性感染率、ましてや、肺炎に至る発症率は高々1%程度に過ぎないことが実証されている事からも明らかです。

 治療は、マクロライド系抗生剤やニューキノロン系抗生剤に良く反応し、これらの投薬により速やかに症状改善・治癒に至ります

*脚注: マイコプラズマ感染症の成立は、他の殆どの細菌ウィルス・感染症の様に病原体が宿主(この場合ヒト)の細胞や組織に侵入して増殖した結果、障害をもたらし発病するのではなく、病原体に対しての宿主の過剰免疫応答によるものであると言うことが最近明らかとなりました。このことは、即ち、マイコプラズマが例え抗生剤に反応しにくくなるものに変異(いわゆる耐性化)したとしても、この耐性菌による感染後の発病も非耐性菌と同じ発症転機、即ち、宿主の過剰免疫応答による発病であることに変わりはないと言うことを示しています。言い換えれば、マイコプラズマの耐性化・非耐性化は発病とは無関係であるし、ましてや、抗生剤が病状の改善に供さない等の事象とも全く無関係であると言うことです。後述しますが、この宿主の過剰免疫応答による発病をもたらす病原体は、他にも幾つも存在することが明らかになってきています。

 


 

では、以上のマイコプラズマ肺炎の知見をしっかりと念頭に置いた上で、彼らがマイコプラズマ肺炎と断定した「証拠」が如何に奇異かつ脆弱であるかを論証して行きます(RSウィルス感染症については後述)


1.:現在流行中の肺炎患者に対して行った血液検査の結果からマイコプラズマ肺炎と診断された

 

 彼らの「証拠」は、この1点のみです。この「証拠」の出所は、厚労省が指定した定点観測指定機関に当たる日本全国の病院・診療所から報告された「感染症動向調査」に基づいています。ここからの2011年8月以降の報告によれば、マイコプラズマ肺炎が急増しているとされているのです。これは、一見事実のように見なされがちです。ところが、これが実は拙速な結論を生み出す基なのです。

 当ホームページの「感染症について」をご参照頂きたいのですが、「厚労省が指定した定点観測指定機関からの「感染症動向調査」報告」には、大きな落とし穴があり、科学的根拠が曖昧または稀薄でも、それを更に検証する手段が無い場合、例え報告する医師達も疑問に思いつつも、報告義務があるため、暫定的診断をあたかも確定診断のように、主観に基づいて報告している場合があるのです(事実、厚労省が設定した診断届け出基準には致命的な不備・欠陥があり、後述しますが、生化学的にはマイコプラズマ肺炎と診断し得ない数値でも診断可能となっています)。この信頼性の怪しい報告を受けた厚労省の事務官達は、勿論、医学的知識は皆無のため、報告書に記載された病名を機械的に集計し、何の仮借もせずに発表しているという次第です。

 この様な報告に、一体どれくらいの信頼性・信憑性があるというのでしょうか?

 にも拘わらず、マスコミ諸氏を含めた一般大衆のみならず、この発表を何の疑念も抱かずに鵜呑みにして信用する浅はかな臨床医家(医師)達が、残念ながら日本には数多く存在します。

 ここで、彼の浅はかな臨床医家はこう反論してくるでしょう。「検査でマイコプラズマ抗体が陽性に出ているから、マイコプラズマ肺炎だ」と。

 この様な考えこそが浅はかだと言わざるを得ません。何故ならば、上記の集計態様に加えて、現在、日本で施行されている検査法自体にも相当な問題点が内在し、その結果に絶対的信頼性を付与することは不可能だからです

 マイコプラズマ抗体には、他の感染症と同様、IgM抗体IgG抗体の2種類の抗体の存在に加え、IgA抗体も存在し、いずれも感染した後に血清中に出現してきます。麻疹、風疹、あるいは、水痘の様なウィルス感染症の場合、健常人において、血清IgM抗体が存在する期間は、病初期から回復後数ヶ月間の範囲に限定されており、その後はIgG抗体のみとなることがよく知られています。従って、IgM抗体を検出することは、通常急性期(即ち、その病気に罹患した直後)診断としての診断的意義が大きいのです。この知見に基づき、マイコプラズマIgM抗体を検出する迅速検査法(イムノカード法、IC法。定性であり、定量法ではありません)が、21世紀初頭に考案・開発され、近年日本で爆発的に普及しました。

 ところが、その後、この検査法には致命的な欠点がある事が明らかとなったのです。

 マイコプラズマは顕性(症状が出ること)・不顕性にかかわらず一生の間に繰り返し感染し、その都度IgM抗体が産生されているのです(麻疹等と大きく異なる点)。さらには、IgM抗体が一旦産生されると、少なくとも1年程度か、あるいは、それ以上の期間血中に存在していることも明らかになっています

従って、IC法で例え陽性反応が認められても、それが現在の症状を反映しているとは限らないのです。

 ましてや、元々IC法は定性法なので、量的に判断することも出来ません

 換言すれば、この検査で陽性反応が検出されたとしても、それは過去に感染したマイコプラズマ感染症を見ているに過ぎないのかもしれず、現在の症状がマイコプラズマ肺炎によるものであると言う診断根拠にはなり得ないのです。このことは、日本でのイムノカード法キットを輸入販売しているTFB社ですら認めている事実であり、キットの添付文書に、「本法で陽性反応を認めたとしても、マイコプラズマ肺炎の確定診断とは言えないことに注意して下さい。確定診断のためには、その他の症状経過、他の臨床所見、あるいは、他の検査所見とを併せて総合的に判断して下さい」と、記述してあることからも明らかです。この添付文書を浅はかな臨床医家たちはまさか読んでいないのでしょうか(どうしてその様なずさんな医療が平気で出来るのでしょうか)?

 以上から、このIC法キットの信頼性はよくて50%程度と考えて差し支え有りません。

数学的に言えば、IC法によるIgM抗体の検出は、マイコプラズマ感染症の必要条件ではあるが、十分条件にはなり得ないと言うことなのです。

 このIC法を開発したのは、ドイツのバイオテクノロジー関連の会社ですが、とうの昔に、欧米では、上記の理由により、IC法の信頼性は著しく低下してしまいました。従って、現在欧米では、ELISA法(IgM抗体、IgG抗体、および、IgA抗体の3つの抗体を各々単独かつ高精度に検出可能な測定法。しかもこちらは定量法)がマイコプラズマ診断の標準法として既に定着しています。

 マイコプラズマの抗体測定にはもう一つ古くから間接赤血球凝集反応(抗体により赤血球が凝集すること)を利用して改良を加えた高比重微粒子凝集法(PA法)という検査法があり、こちらが、現在の大多数の日本の病院における、マイコプラズマ肺炎診断の標準法となっています。PA法は半定量検査であり、倍数で表現されます。測定可能な最低の倍数は40倍であり、2005年に成田らにより行われた健常成人に対しての調査により、640倍以上の抗体保有者を認めなかったことが報告されています。このことから、PA法により640倍以上の数値結果を得られた場合、感染急性期に近い状態だと成田らは主張しています(しかしながら、この集計の母集団の数は124例とそれほど多くないことと、以下に述べるように非特異的反応の存在の両者を考慮すると、1280倍以上の数値がなければ、統計学的に有意であるとは決して断定できません)。更には、この検査においても、マイコプラズマ抗体以外の非特異的抗体を検出している可能性が否定できず、確定診断には、ペア血清法(およそ2週間以上の間隔を置いて2回測定する検査法)の施行が不可欠となってくるのです。

 今回の「肺炎」に関して、その根拠とされる検査の詳細について、勿論、素人のNHKからは何も言及がありませんが、先述の厚労省の設定した診断届け出基準では、IC法による陽性判定結果だけでも、マイコプラズマ肺炎と断定でき得る様になっており、勿論、現在の集計のかなりの部分をIC法による結果が占めています。集計結果のその他は殆ど全てPA法、しかも、単独検査の結果か、もしくは、ペア血清法の結果によるもの(厚労省基準は、どちらで判定しても構わないという甘い基準になっています)が殆どですが、ペア血清法の結果だとしても、驚くべき事に、たった320倍程度の数値上昇でマイコプラズマ肺炎と診断して構わないことになっているのです(上述の通り、1280倍以上の変動を満たさなければ、統計的に有意ではない、即ち、マイコプラズマ肺炎と診断することは出来ないにも拘わらず)。

 

この様な「まがいものマイコプラズマ肺炎」が、どうして「マイコプラズマ肺炎」と言えるのでしょうか?


 上記のように、生化学的に厳格な基準に合致する正当な検査結果のみを拾い出して、今回の集計を篩にかけ直したら、おそらく、マイコプラズマ肺炎の統計学的に正当な「真の実数」は、発表された数の20%〜30%程度に激減するに違いありません。

 従って、今回(だけに限りませんが)の厚労省集計のマイコプラズマ肺炎の発生数に対する統計学的信頼性は、最大限好意的に評価しても高々30%程度しかない、と言う論理的結論が導出されます。


  以上の様な統計学的実数しか得られないのに、どうして、「マイコプラズマ肺炎」が流行していると言えるのでしょうか?


換言すれば、現在の「肺炎」の原因としての大多数は、マイコプラズマ以外の病原体によるものであり、マイコプラズマ肺炎は例年通り、単なる小流行に留まっているに過ぎないと言う不可避的・論理的結論が導出されるのです。


 この様な信頼性の極めて乏しい根拠しか存在しない事象に絶対的価値を付与しつつ、大騒ぎする非論理的態度こそが、日本だけで年中行事のように繰り返される「ワクチンの副作用(副反応の間違い)」事件等の根本原因となっているのは明らかであり、日本のマスコミや厚労省は非科学的だと欧米から揶揄されても仕方がありません(「またしても起きたワクチン…」の項参照)。

 

日本の常識は世界の非常識です。

 

 以上、彼らが論拠とするものは、極めて証拠能力の乏しいものに過ぎず、マイコプラズマ肺炎と結論づけることは、困難であることを完全に論破しました。

 

 次に、この肺炎が、マイコプラズマ肺炎ではない、他の感染症によるものであることを、臨床的証拠や現在までに明らかになっている医学的知見を基に検証して行きましょう。

 

 先ず、この肺炎で認められる臨床症状とその動態を列挙します。

 

  1. 初期症状が咽頭痛から始まり、視診上、軟口蓋に刷毛で描いた様な発赤部分、及び、もしくは、点在する発赤部分を認める。
  2. 咽頭痛に次いで数日後から咳嗽が始まり、次第に増強する。この病日頃から、同時に鼻汁、鼻閉も著明に認める。
  3. この段階で適切な内服薬の選択や治療を開始しないと、重症気管支炎、または、肺炎の状態に陥ることがしばしばであり、気管支喘息の既往を有する者は、ほぼ必発症状として同時に気管支喘息発作症状が発現する。
  4. 発症年齢は、1歳以上から成人まで幅広く認められる。1歳以下には、アトピー体質、即ち、気管支喘息体質を有する児以外には殆ど発症が認められない。
  5. マイコプラズマ肺炎既感染者にも発症が観られる。しかも、特に幼児においては、数週間単位で繰り返し感染・発症を来す傾向を認める。
  6. 下痢、腹痛などの急性胃腸炎症状を伴うことがしばしばである。また、眼球結膜炎も高頻度に認める。
  7. セフェム系抗生剤(フロモックス、メイアクト等)が無効であるのは勿論、通常マイコプラズマ肺炎を含む呼吸器感染症に極めて有効であるニューキノロン系抗生剤(クラビット、オゼックス、アベロックス、ジェニナック等)が全く奏効しない。
  8. ところが、マクロライド系抗生剤のクラリスロマイシン(クラリス、クラリシッド等)のみは、著明に奏功し、治療開始から4日ほどで著明に改善し、1週間〜2週間で寛解治癒に至る。
  9. 真の喘息治療薬であるトシル酸スプラタスト(アイピーディ)をクラリスロマイシンと併用した場合、更に改善度の増強、および、改善までの期間の短縮化が認められ、特に気管支喘息症状を併発している者に対しては、喘息発作の改善のため、その使用は不可欠的である。

 

 以上の様に、いずれの項目も、もし、この疾患がマイコプラズマ肺炎だとしたら、冒頭に述べたマイコプラズマ肺炎の概要と照らし併ると、9以外は全く説明の付かない、矛盾する事項ばかりなのです。

 更には、上述のPA法による検査結果で、1280倍以上の結果を得て、マイコプラズマ肺炎と診断されている症例においても、上記の1〜9の項目のいずれか、あるいは、全てを確認し得る場合が殆どであり、この様な症例の原因をマイコプラズマ肺炎単独に求めるには無理があることは明らかであります。

 これらの厳然たる事実に対して、素人のマスコミ諸氏はさておき、専門家たるべき浅はかな臨床医家たちは、どう答えるおつもりなのでしょうか?

 もし、全てを例外だという答えで逃げようとするなら、もはや何をか況んやです。何となれば、統計学的に、例外と認められ、棄却できる事項は高々5%未満だからです。換言すれば、殆ど全症例に当てはまるような事象は、統計学的に無視できない真の事象に他ならず、それらを「例外である」とするのは、不可能であり、この様な強弁は自然科学の法則に反する行為、即ち、非論理的(もはや科学ではなく占星術や宗教の様なもの)強弁と断じざるを得ません

 

 では、一体、真犯人、即ち、この肺炎の原因となっている病原体は何者なのでしょうか?

 

 答えは、上記の項目を全ての医学的知見を踏まえて熟慮すれば明らかです。

 

真犯人は、Adeno Virus Type 7 and/or Human Meta Pneumo Virus

アデノウィルス7型及びもしくはヒトメタニューモウィルスです。

 

 

 Adeno Virus Type 7は、アデノウィルスの一つの型であり、アデノウィルス自体は感染症の中でも非常にありふれてはいるが、重要なものの一つです。

 

 アデノウイルスは、1953年にアデノイド(扁桃)組織から分離同定されたDNAウイルスの一種です。21世紀初頭までに既に51種類の血清型が分離同定されていましたが、これに加えて、アデノウィルスに対する全ゲノム配列の同定により、2010年新たに52、53、54型の存在も確認されました。これら全54種類の内、ヒトに対して病原性を有するものは、少なくとも30種類以上存在することが確認されています。

 これらの多種類に及ぶアデノウィルスの極めて特異的な性質は、型により様々な病態を呈すると言うことです。例えば、最も有名なプール熱(咽頭結膜熱)は、主として、1、2、3、4、6型が原因となっており、流行性角結膜炎(眼球の角膜と結膜の両者が侵襲を受ける)は、主として8型で、出血性膀胱炎(突然血尿を来す疾患)は、11型。更には、急性胃腸炎は40、41型と、各々の型によって全く異なる病態を示すのです。これらの型による様々な疾患に加え、重症肺炎型と呼ばれるタイプがあり、これが、Adeno Virus Type 7なのです。7型は、近年では1995〜1998年まで全国で大流行し、死亡例や回復した後も後遺症の残る症例が続出しました。2000年以降は、毎年大流行する傾向は認められなくなった様ですが、それでも尚、局地的、あるいは、季節的な流行が散発的に認められ、中でも2003年はかなり流行し、この年もマイコプラズマ肺炎(または異型肺炎)と暫定的診断を成された肺炎が流行し、その多くがAdeno Virus Type 7による肺炎であったことが、後の疫学的調査により判明しています。

 インフルエンザにも周期的流行性が認められるのと同様、このAdeno Virus Type 7にも周期的流行性が存在するものと考えられます。何故ならば、上記の様に、1995〜1998年と、2003年、そして、今回の2011年の周期的流行性が認められることが明らかであり、かなり高い確率で5〜8年周期性であることが推測されます。但し、実際に、これを証明するためには、十分な疫学調査が必要であり、今後の調査検討が待たれるところですが、それにより仮説通りの結果が得られるものと確信しています。

 

 Adeno Virus Type 7による肺炎の症状は、上記1〜6に述べた様相を呈します。即ち、上気道炎症状から始まり、次第に気管支炎、さらには、肺炎に至ると言う病相過程を必ず呈します。この様な病相過程は、例え生物学的多様性を考慮しても、病態生理学的に、マイコプラズマ肺炎では決して起こり得ない事象です。特に、上記の病相6は、マイコプラズマ肺炎では全く説明できない病相であり、Adeno Virus Type 7特有の症状と断言しても差し支えありません。何故ならば、7型はアデノウィルスの他の型、即ち、1、2、3、4、6型や40、41型とほぼ同等の性質をも有しているため、咽頭結膜熱や急性胃腸炎の症状を呈することもしばしばであり、実際、咽頭結膜熱や急性胃腸炎のみの症状を呈した症例から7型が検出されることも頻繁に認められています。

Adeno Virus Type 7が他のアデノウィルスと異なって重症化し易い理由は、Adeno Virus Type 7の発症転機に求められます。即ち、その宿主での増殖過程において、このウィルスが、生体細胞や組織に直接侵入して、その中で増殖して障害をもたらして(一部のAdeno Virus Type 7はこの増殖過程も取る)発症・重症化につながるわけではなく、むしろ、生体における免疫・アレルギー体系の中で基点的役割を担うTh1-Th2リンパ球系と、そこから産生されるサイトカインに対して、直接的および間接的障害をもたらし(特に、サイトカインの遺伝子配列(アミノ酸1次構造)の特異点的変異Point Mutationすら引き起こすことが近年明らかになっています)、その結果、サイトカインストーム(生体にとって有害作用をもたらすほどサイトカイン産生を増幅させる現象)を引き起こすこと、即ち、生体側の過剰免疫応答を引き起こすことが、重症化に繫がっているからであると、既に幾つかの研究報告からも明らかとなっています(冒頭の脚注参照、および、アレルギー性疾患等の項目参照)。この様な、発症転機をとるウィルスや病原体は幾つも存在し、この後述べるHuman Meta Pneumo VirusRS Virusも、その代表的存在の一つであり、また、マイコプラズマ肺炎もほぼ同様の発症転機を取ることが明らかとなっています(冒頭の脚注参照)。

 換言すれば、マイコプラズマ感染症においても、その感染が重症化、即ち、肺炎に至る過程は、マイコプラズマそのものが生体の組織障害を起こした結果ではなく、生体側の過剰免疫応答によるものであることが、幾多の証拠から明らかとなりつつあると言うことです。従って、浅はかな臨床医家たちによる「今回の偽マイコプラズマ肺炎大流行」の主原因を、「マイコプラズマの耐性菌化によるものだ」とする主張も、全く無意味かつ稚拙な非科学的暴論であると断じざるを得ません。何故ならば、耐性化していようが、いまいが、そのことがマイコプラズマ感染症が肺炎に至る病態生理学的過程には全く無関係であることは勿論、治療に関しても、治療の本質は病原体を薬剤によって排除することではなく、宿主の過剰免疫応答を抑制し正常化させることであるからです。従って、抗生剤が病状の改善に供しない(奏功しない)事もマイコプラズマが耐性化したためではなく、病原体侵入による宿主の過剰免疫応答を抑制することに失敗しているからなのは、言うまでもありません。

 また、今回の偽マイコプラズマ肺炎が、マイコプラズマ感染症既感染者に対して成立していたり、あるいは、短期間に何度も繰り返して同症を発症している理由を、浅はかな臨床医家たちは、「マイコプラズマの耐性菌化によるものだ」と、性懲りもなく主張しているようですが、NHKが、成人にもRSウィルス感染症により重症化していると主張する(後述)のと同じくらい、まさしく噴飯ものの素人による恥ずべき非科学的な議論だと断じざるを得ません。もし、その主張が正しければ、貴方たち浅はかな臨床医家たち、特に、小児科医たちは、今頃、大量に重症肺炎に至り、各地の病院は患者化した彼等が占拠してパニックに陥っているはずです。正解は、上記に述べたとおり、耐性化は一切無関係で、宿主の過剰免疫応答によるものであるから、貴方たち浅はかな臨床医家たちは、今回の偽マイコプラズマ肺炎にならないのです。

 

 アデノウィルスを検出する臨床検査法には、現在、3つの方法がありますが、いずれも一長一短で、マイコプラズマ感染症における臨床検査法と同様、かなりの問題点を内在しています。

まず、(1)ウィルス分離法。これは、咽頭ぬぐい液、喀痰、胸水、糞便等の検体から直接アデノウィルスを分離抽出する方法です。しかし、この検査は、保険適応が認められておらず、高費用な上に、検出までに1〜数週間を要するため、現実的ではありません。(2)血清抗体診断法中和抗体を測定するこの方法を用いれば、アデノウィルスの型判別も可能であり、比較的信頼性の高い検査法です。但し、マイコプラズマ感染症における検査法で述べた様に、中和抗体、即ち、IgGは急性期終わり頃になり漸く出現する抗体であるため、急性期診断に有用であるとは言えません。(3)迅速検査キット。2004年頃から導入された、免疫クロマトグラフィー法による測定法です。操作が簡便な上に、10分程度で反応が得られるもので、アデノウィルスか否かを判別するためには、極めて有用です。但し、型判別は不可能であり、更には、キットの感度自体が70%程度と偽陰性(本来陽性なのに陰性という結果が出てしまうこと)率が無視できないくらい高く、しかも、咽頭を擦過して検体採取する際、擦過が不十分であると更に感度が40%程度にまで低下すると言う、やや致命的とも言える難点があります現在、日本で事実上実行可能なアデノウィルスに対する臨床検査法は、以上の3つであります。上記で明かな様に、いずれの検査法も、臨床の現場で急性期診断、しかも、型判別まで行いたいという要求を満たすものではなく、診断補助として、決して高評価を与えることは出来ないものばかりです。現在、欧米で一般化されつつあるPCR法(各々のウィルスに特異的なDNA配列を拾い出し、それを増幅して検出する検査法。現在、日本では厚労省の指定する定点観測機関のみで行われています)が普及すれば、状況は変わりますが。見通しは余り期待できません。

 以上の様に考察すれば、アデノウィルスに対する診断は、病態生理学、生化学、薬理学等の修得、研鑽を生涯日々怠らない様にした上で、常にその時々の感染症の流行状況を正確に把握し、患者さんに対しての、問診、視診、聴診を充分に行うという、古典的な診察法こそが診断の決め手になると言う結論になります。この様な古典的診断法こそ、現在の臨床医家たちは軽視しがちなのですが、検査のみで診断を下すより遙かに正確である場合が、往々にしてあるということを、今一度再評価すべきなのです。何故なら、ここまでで述べてきた様に、臨床検査は時として嘘をつく、あるいは、検査結果に対しての判定者が真実を見据えていない場合が、現在の日本では余りにも多いからです。

 生化学的臨床検査法は、確かに有用であり、確定診断の決め手となることもしばしばではあります。しかしながら、今回のマイコプラズマ肺炎におけるIC法やPA法の様に、あるいは、上述のアデノウィルスに対する検査法の場合なども同様に、それ単独だけでは判定(確定診断)が困難または不可能である検査も、一方では数多く存在することも又事実です。

 従って、ある疾患に対して臨床生化学検査を行う場合、その検査が一体どういう原理に基づいていて、何を測定しているものなのかを、正確に把握しておく事は絶対必要条件なのです。さらには、その検査によって得られる結果の評価判定が、生化学的、統計学的に真に有意であるか否かも考慮すべきなのです。何故なら、臨床検査によって得られるデータも、科学的データである以上、その解釈判定に際しては、データと対照群との統計学的比較検討を行うことで初めて必要十分条件となり得るからです。

                                                                                                                                                 

   薬理学や生化学を含めた科学においては、この様にして、得られたデータの解釈を行うことが必須であり、それでこそ、科学と言えるのです。ところが、残念ながら、臨床医学はしばしばこの様な検証を怠りがちであり、「臨床医学は科学ではなく錬金術」だと、基礎医学者から揶揄される由縁となっています。換言すれば、この様にして真に科学的に正当であるかどうかの判定過程を経ない結論は何の意味もない、科学以前の錬金術師的結論に過ぎないのです。

 Adeno Virus Type 7に対する治療法は、この後述べるHuman Meta Pneumo Virus(HMPV)RS Virus(RSV)感染症に対する治療法とほぼ同一のため、まとめて後述します。

 

 ヒトメタニューモウィルスHMPVは、2001年に初めて分離発見されたウィルスで、ウィルスの分類学上、パラミクソウィルス科(Family Paramyxoviridae)、ニューモウィルス亜科(Subfamily Pneumovirinae)に分類され、RSウィルスRSVも同じ分類上に属する(前者がメタニューモウィルス属で、後者がニューモウィルス属に更に枝分かれする)ウィルスです。両者は、この様に非常に近縁関係にあるため、感染成立によって引き起こされる臨床像も非常によく似ています。即ち、軽度の咽頭痛に始まり、鼻汁、鼻閉症状に次いで、咳嗽が始まり、次第に咳嗽が増強して行くと言う、上気道から気管支炎への病相移行が両者共に見られますさらに病相が増悪すると下気道炎(肺炎や細気管支炎)に進展し、高熱の持続、呼吸困難症状を伴う頑迷な咳嗽、および、気管支喘息発作症状の発現も高率に認められる様になります最悪の転帰の場合、死に至る場合すら有ります

 両者の決定的相違点は、HMPVの方は、通常生後6ヶ月以降にしか発症が見られないのに対し、RSVは、逆に生直後から発症が見られ、通常1歳半以上では発症が見られず、それ以降の年齢層では、軽度の上気道炎症状しか認めないと言う点にあります。これは、HMPVに対しての移行抗体(胎盤を通じて母親から胎児へ移行する抗体)の消失し始める時期が、生後6ヶ月頃であることと見事に一致することからも明らかな様に、生後6ヶ月までは移行抗体による感染防御が有効であるため、HMPV感染が成立しないからだと考えられます。逆にRSVの移行抗体は微弱又は皆無であることが確認されており、このため、RSVは生直後からも感染成立しうるのです。

 HMPVは、2歳までに約50%、10歳までにはほぼ全員が感染すると言うことが明らかになっており、一方のRS Virusは、2歳までにほぼ全員が数回以上感染していることが明らかとなっています。両者共に繰り返し感染することが特徴でもあり、数回以上感染して初めて強い中和抗体が出来ることも明らかとなっています。中和抗体が出来れば、以降は感染しても軽度の上気道炎症状、即ち、鼻汁と軽度の咳嗽程度の症状発現に終わることになります。換言すれば、1歳半以上、特に、2歳以上のRSV感染においては、治療を要するほどの症状発現を認めることは、病態生理学上においても、疫学上においても、殆どあり得ないということが、これにより明確に示されます。従って、NHKの主張する2歳以上の「RSウィルス肺炎」は、正しく噴飯ものであり、地球上には、この様な奇異な疾患はまず存在しません

 両者共に、気管支喘息発作症状の発現を認めることが多い原因は、Adeno Virus Type 7の項で述べた様に、両者共に、生体における免疫・アレルギー体系の中で基点的役割を担うTh1-Th2リンパ球系と、そこから産生されるサイトカインに対して、直接的および間接的障害をもたらす(特に、サイトカインの遺伝子配列(アミノ酸1次構造)の特異点的変異Point Mutationすら引き起こすことによることが、ほぼ明らかになった)ことから説明できます。即ち、当ホームページの気管支喘息の項等で繰り返し述べている様に、Th1-Th2リンパ球系の障害は、即、気管支喘息発作症状の発現に繋がるからに他なりません

 また、Adeno Virus Type 7と共に、両者の特筆すべき点は、他のウィルスやマイコプラズマ等と多重感染を起こすことです:例えば、HMPVとRSV、あるいは、HMPV とAdeno Virus Type 7の様な同時多重感染のことこの傾向は、HMPVと他のウィルスの組み合わせの場合に特に高頻度に認められます。さらに、HMPVは呼吸器症状に加えて、中耳炎や下痢などの急性胃腸炎症状を伴うことも高頻度に認められます

 

以上の様な両ウィルス感染症の概要を熟考し、さらに今回の「肺炎」の臨床症状(上記の1〜6)とを照らし合わせると、結論として、「マイコプラズマ肺炎又はRSV」ではなく、Adeno Virus Type 7 and/or Human Meta Pneumo Virusであることは、否定できない事実と言わざるを得ないのです。

 HMPVを検出する臨床検査法には、現在、アデノウィルス感染症における臨床検査法と全く同一のウィルス分離法とReal-Time PCR法の2つの方法しかなく、上記で述べた様に、いずれも現実的な検査法とは言い難いものでしかありません。一方のRSVに対しては、マイコプラズマ肺炎迅速検査法と同様なイムノクロマト法によるRSV抗原に対する迅速検査法があり、こちらの信頼度は抗原を測定するため100%近いものと考えて良く、この検査で陽性反応を認めれば、少なくともRSV感染症は存在すると考えて差し支えありません(但し、上記の様に多重感染ウィルスの存在は否定できない)。いずれにしても、検査を過信すると思わぬ落とし穴にはまることは、他の場合と同様です。

 治療については、マイコプラズマ肺炎をも含めて、ほぼ同一の治療により、改善治癒に至らしめます。即ち、上記7〜9に記載した通りの内服薬、クラリスロマイシンとアイピーディを中心とした投薬を行えば、1〜2週間で寛解治癒に持ち込めます。これに関する薬理学的説明は、簡単にできますが、敢えて詳述することは控えたいと思います(この項の各所に答えを散りばめてあります)。薬理学と病態生理学に精通すれば、他の項も含めてこれまでに述べてきたことから自明の理であり、この項だけを読んできた不勉強かつ浅はかな臨床医家の諸氏にとっては大いに不満足でしょうが、彼らに反省を促し、軽率なマスコミやしたたかな官僚の妄言に惑わされずに真実を看破する眼力を養うべく、自らの頭を使って基礎から勉強し直す態度を身につけさせるためにも、敢えて述べないことにします。何故ならば、不勉強かつ浅はかな臨床医家に覚醒してもらわなければ、日本の医療は早晩崩壊の日を迎えるに違いないからです。

 

 ところで、この原稿を執筆している11月現在、NHKは未だに性懲りもなく、「マイコプラズマ肺炎大流行」と言う、誤報道を異常なまでに執拗に繰り返しています。しかし、一方で、この様な医療に関する話題にいち早く関心を示し、率先して誤報道を展開するはずの日本の3大有力新聞が、極めて不思議なことに、この話題に一切触れず、今回は何故か沈黙を守り通し続けているのです。これは一体どういうことでしょうか?この様な奇異な現象を観察すると、何者かの意思によって情報操作が行われているのではと、つい考えてしまいます。単なる、私だけの思い過ごしで有ればよいのですが。

 

以上、要約すれば、総合的に考慮して、今回の肺炎の殆どの真犯人は、マイコプラズマ肺炎やRSウィルス感染症ではなく、アデノウィルス7型、およびもしくは、ヒトメタニューモウィルス感染症と結論づけすることこそ正当な科学的結論なのです。

 

繰り返しになりますが、重要なのは、日本人一人一人(マスコミ諸氏や一部の医師も勿論含む)が、「このままでは世界から取り残される」という危機感を今すぐ覚えるべきだと、私は考えます。


薬理学は、基礎医学の総合的学問であると同時に、臨床医学の正当性を検証するのに不可欠な学問と言えます。
即ち、薬理学とは、一言で表せば、薬が人体のどこに作用して、どの様に効力を発揮するかを研究する学問だからです。

 

例えば、「この薬はこの症状に効くから」と言う観点だけで、一般臨床医は、薬を使用しがちです。
しかし、これでは、科学以前の経験論のみに依存した欧州中世の錬金術師の非科学的方法論と、何ら変わるところがありません。

 

具体例として言い換えますと、「咳が出ているから、咳止めの薬(アスベリン、メジコン等」を処方する」 
これは、必ずしも正解ではありません。

 

私の場合、「咳が出ている」→「気管支そのものへの微生物侵襲による炎症によるものか(病理学・生理学・微生物学)、
あるいは、何等かのアレルゲンによって引き起こされたものか(アレルギー学・分子生物学・生化学)、その原因を診察(問診・視診・聴診・検査等)により特定する」→「特定した原因を除去するために最適な薬剤を選択する(薬理学)」という、フローチャート的診療を常に心がけています。

こうすることが、最も有効かつ安全な診療につながるのです。

 

では、何故、「咳に対して咳止め薬の処方をする」ことが間違いなのでしょうか?

 

咳とは、その殆どが、いわば、生理現象の一種であり、生体に侵入した微生物、あるいは、アレルゲンと呼ばれる物質(異物)を排除しようとする反射なのです(これ以外にも、勿論、気管支そのものの病変に起因する場合、即ち、悪性新生物(腫瘍)や外傷が原因となる場合もありますが、これらの場合の咳も広義では反射です)。

従って、眼前の患者が「咳が出る」と訴えた場合、単純にウィルスの気管支およびその周囲組織への侵入によって引き起こされたもの(いわゆる「かぜ症候群」)であれば、咳止め薬の処方は間違っているとは言えません。

 

しかし、もし、その患者が気管支喘息を有していて、アレルゲンや微生物を排除するための咳であったら、咳止め薬の処方は悲劇的な結果を招来する危険性があるのです。

咳止め薬は、その殆どが、延髄と呼ばれる脳の一部に存在する咳中枢に直接作用して、その神経細胞の興奮性を抑制することを介して、咳を鎮静化すると言う薬理学的機序を有しています(一部、反射に依存せず、気管支そのものに作用する咳止め薬もありますが)。


従って、アレルゲンを排除するために生じている、いわば、「生理的反射」の咳を、無理矢理、神経細胞の興奮性を抑制して止めてしまったら、アレルゲンが排除できなくなり、最悪の場合、窒息死に至るのです。

 

この様な機序を明らかにするのが薬理学なのです。

 

この場合の正解は、まず、病原体由来の咳の場合、病原体を弱体化、あるいは、除去するのに最適な薬剤(抗生剤等)を選択し、次いで、気管支拡張剤(メプチン、ホクナリン等)の処方を中心にし、喀痰排出促進剤(ムコダイン等)、や、第二世代抗ヒスタミン剤(ゼスラン等)、あるいは、気管支喘息の症状が強い場合は、それらに対する薬(アイピーディ、オノン等:気管支喘息、アレルギーに関しては別項で詳細に述べます)を、組み合わせて処方するのが、最も薬理学的整合性を満たした処方なのです。

 

もう一つ、具体的な薬の事例について、挙げてみましょう。
鼻水が出ていることに対して、その症状を緩和するための処方として、昔から抗ヒスタミン薬を用いてきました。


しかし、薬理学や分子生物学が発展してきたおかげで、この抗ヒスタミン薬の古い世代(第一世代)、特に、シプロヘプタジン塩酸塩水和物(商品名ペリアクチン)には、本来の抗ヒスタミン作用(鼻汁分泌抑制)の他に、抗ムスカリン作用を強く有していることが明らかとなりました。
ムスカリン受容体は全身のあらゆる臓器・組織に存在する、自律神経伝達物質の受容体であり、神経伝達物質であるアセチルコリン(ACh)に反応して生理機能を体現します。

 

即ち、ペリアクチンは鼻汁抑制効果だけでなく、その強い抗ムスカリン作用のため、眠気は勿論、全身的自律神経(主として副交感神経)に対する抑制効果をもたらすのです。
その中で、最も問題となるのが、気管支分泌物抑制作用です。これを具体的に言い換えますと、気管支内の分泌物、即ち、痰を粘稠化して固まらせる作用のことであり、気管支喘息発作による鼻汁・痰の場合、ペリアクチンは、最悪気管支内壁に痰を固着させて排出困難の状態を惹起し、窒息をもたらす危険性があるのです。

 

従って、気管支喘息を有している児にペリアクチンを処方するのは、大変危険であり、10年ほど前から、日本アレルギー学会等では、「喘息患者に対してペリアクチンの使用を禁忌とする」と警告しているのです。

 

しかし、この警告を全く無視するかのごとき処方が、未だに、日本国内で、特に、この京都で平然とまかり通っています(何も問題が起こっていないのが不思議なくらいです)。

医師から「風邪」の安直な診断を受け、「アスベリン、ペリアクチン等」という愚かな処方を受けた場合、直ちに、その薬は飲まずに破棄して当院を受診して下さい


私は、以上の様に、完全に最新総合医学的見地に立脚した医療を行うよう、常に情報を更新しながら前進し、日々研鑽をし続けています。


ワクチンの副反応について、是非述べておかねばなりません。

 

まず、マスコミ諸氏をはじめとした、一般の方は勿論、臨床医家の多くの方が口にする、「ワクチンの副作用」は、元々存在し得ない概念であるという正しい認識に改めて頂きたい。

何故ならば、作用(Effects)とは、生物の体内に意図的に投与した薬物(合成、非合成(動植物から抽出した場合)共に、治療を目的とした化学物質)が、目的とする臓器・組織において、治療効果を発揮した場合の事象を指し、一方の副作用(Side Effects)は、その薬物の標的臓器・組織においては勿論、それ以外の臓器・組織においても、本来の目的以外の起きてしまった効果・事象を指します。

 

これに対して、ワクチンの場合はどうして、副作用は存在しないのでしょうか。

 

ワクチンは、その成り立ちが薬物ではありません。

即ち、治療を目的とした化学物質ではなく、病原微生物の全て、または、その一部(最近では、子宮頚癌ワクチンの様に、微生物を似せて合成したものもあります)、または、それら病原微生物が産生する毒素からなる、いわば、生体に対して毒性を有した異物なのです。

 

従って、ワクチンを生体内に投与すると言うことは、それによる治療効果などは当然元々存在せず、生体内にとっては、ワクチンとは邪魔者にしか過ぎない異物なのです。

この邪魔者が生体内に侵入したことにより、生体は当然防衛反応を起こし、その邪魔者、即ち、ワクチンを排除しようとする反応(Reaction)が生じます。

 

これが、ワクチンに対する生体の免疫反応(Immunological Reaction)です。

 

この様にして、それぞれのワクチンが含む病原微生物に対しての生体の免疫、即ち、特異的な抗体を獲得させるのが、ワクチンの企図している反応(Reaction)です。そして、この企図した反応以外の生体にとって不都合な反応(発熱、発疹、アナフィラキシー反応等)を副反応(Side Reaction)と呼ぶのです。

以上のように、作用・副作用と反応・副反応とは、全く別個の概念であり、決して混同すべきものではありません。

 

この概念定義を、「何だそんなこと」と捉えていること自体が、そもそも、大多数の日本人の非科学的態度を端的に表しているものであり、この様な非科学的態度こそが、未だに年中行事の様に起こる、ワクチンに対する誤解や風評被害の根本原因となっていると考えられます。

 

例えば、「保育園で現在おたふくかぜ(ムンプス)が流行っているからムンプスワクチンを接種して欲しい」と言った類の依頼が、しょっちゅう当院にも舞い込みます。

この様な場合、私は、大概その依頼を断ります。

 

何故ならば、ワクチンは薬物ではない以上、この様な、現時点で、既にムンプスが潜伏してしまっている可能性が高い児にワクチンを接種しても無効だからです。

言い換えれば、ワクチンによって、ムンプスウイルス抗体を獲得するまでにムンプスを発病する危険性の方が高いからです。

つまり、マスコミ諸氏も含めて、ワクチンを未だに薬物と誤解しているから、この様な発想が生じるのです。

 

日本以外の諸外国の人々は、誰もワクチンを薬物とは考えていません。

ワクチンの副作用」と言う表現は、「ニワトリの臍の緒」と言っている様なものであり、発言者の知性・素養が疑われる恥ずかしい行為だからです。

 

この彼我の差は、一体どこから生じているのでしょうか。別項でまた述べることにします。


ワクチン自体は、フランスのパスツール研究所(細菌学の祖の一人パスツールを記念して設立)で、既に25年程前に開発されました(1986年)。

 

開発とほぼ同時にフランスとドイツで運用が開始され、その翌年には米国、さらには、英国をはじめとする欧州各国も相次いで直ちに導入し、その結果、僅か数年で細菌性髄膜炎の発生が、欧米各国で100分の1以下に激減したのです。

 

従って、欧米では、細菌性髄膜炎は既に過去の病気であり、通常の臨床医が経験することすらない疾患となりました。

 

米国から東京大学に研修に来た若い米国人医師が、入院中の細菌性髄膜炎の患者を診て、「信じられない!私は開発途上国に来てしまったのか!この様な病気がまだ先進国に存在するはずがない!」と驚愕したという、笑い話のような話が実際に起こっています。

 

ちなみに、私は医師になってから30数人の細菌性髄膜炎の患者の主治医、又は、最初の診断や担当医の指導医として関わったりしました。

 

WHOの疫学的調査、「ワクチンにて予防可能な疾患(Vaccine Preventable Disease (VPD))による15歳未満児の死亡(2000年)」によりますと、上位から麻疹(はしか):約78万人、ヒブ感染症:約46万人、百日咳:約30万人、新生児破傷風:約19万人(以下省略)の順となっており、ヒブ感染症(主として細菌性髄膜炎と急性喉頭蓋炎)は、第2位の位置を占めています。この調査結果は集計前から十分予測されていたものであり、何故なれば、調査結果の出る以前に、疾患の重要性、ワクチンの有効性や安全性を勘案した上で、WHOは世界各国に向けて、ヒブワクチンの接種の勧告(Strongly Recommended)を既に行っています(1998年)。

 

このWHOの勧告を真摯に捉えた世界各国は、先進欧米諸国に続き、21世紀初頭までに次々と、ヒブワクチンを導入し、定期接種化しました。2008年の時点で、同ワクチンは、世界100カ国以上で承認され、94カ国で定期接種化されていたのです。

 

ところが、日本でヒブワクチンが漸く導入されたのは、2008年12月になってからで、しかも、2011年の現在でも、未だに任意ワクチンの扱いという有様です。つまり、1998年のWHOの勧告を日本の厚労省は勿論、マスコミも完全に無視したのです。

 

つい最近まで、一般の日本国民は、ヒブワクチンや肺炎球菌ワクチンの存在すら知らされていませんでした。

 

2008年の時点で顧みても、この時点でヒブワクチンを導入していない「先進国」と呼ばれる国は日本だけと言う、実に不名誉な記録を打ち立てています。また、東アジアだけで見ても、この時点で導入していなかったのは、何と日本と北朝鮮のみという体たらくなのです。

 

2011年3月のヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンを巡る「風評被害」は別項で述べることにします。


2011年3月、未曾有の大地震が関東・東北地方を襲いましたが、この大地震が起きる数日前、日本の有力3大新聞(朝日、読売、毎日)が、一斉に、「ヒブワクチンと肺炎球菌ワクチン等の同時接種により、乳児が死亡」と、例によって、何らの医学知識も経験も研究歴も全く持ち合わせていない、ど素人である新聞記者が、何らの充分な医学的検証も行わずに、断定的かつ扇情的な記事を大々的に報道しました。言うまでもなく、またしても、「ワクチンの副作用」という、全宇宙に存在し得ない事象も反復記述していました。

ワクチンには作用・副作用は元々存在せず、反応・副反応しか存在しません コラム:ワクチンの「副作用」?参照)

 

彼らは、2011年1月から2月にかけて、ヒブワクチンと肺炎球菌ワクチン(および/あるいは三種混合ワクチン)の同時接種を受けた計6名の乳児が、「同時接種を受けたことにより死亡した」と、受け取るしかない記述の報道を、一大センセーショナルに繰り広げました。

しかし、この不幸な乳児達には、彼らの記述していない真の死因が存在し、このことに関しては、一言半句の言及も見当たりません。

 

即ち、真の死因は、先天的心疾患による心不全が5名で、残り1名はミルク嘔吐の誤嚥による窒息死なのです。

即ち、死因は、予防接種とは全く無関係な、乳幼児突然死症候群と呼ばれる疾患分類に属するものであり、いわば、予防接種の「副作用」による死亡説は完璧に冤罪に相当するものなのです。

これらの事態を受け、厚労省は専門家を招集して調査委員会を開き(そもそもこの様な手間を掛けるまでもなかったのですが)、わずか2週間で、「同時接種と今回の乳児死亡には、直接的因果関係は存在しない」と言う結論に達し、4月1日に同ワクチンの接種は再開となったのです。

しかし、この再開決定に際して、上記の3大有力新聞(朝日、読売、毎日)は、翌日に数cm四方の、虫眼鏡でしか見えない程度の囲み記事を、わざと目立たないように(そうとしか思えない)、無関係なところ(政治経済欄等)に掲載したのみに留まり、勿論、一切の弁明や釈明はなく、ましてや、一言半句の謝罪すらありませんでした(勿論、副作用を副反応に訂正してお詫びする事もしていません)。

この馬鹿騒ぎは、欧米各国をはじめとして世界中の注目するところでもありましたが、VPD(ワクチンにて予防可能な疾患:既述)患者数増加を懸念する米国ワクチン専門家のPaul Offit氏に、「こんなくだらないことで中止にするなんて、日本の厚労省はFoolish(大馬鹿者)だ」(Forbes誌、3月10日掲載)と、言われてしまっても仕方有りません。

 

Paul Offit氏が、「Foolish」呼ばわりしている対象は、厚労省だけに留まらないのは明らかです。

日本のこの様な愚かな騒ぎは、今に始まった訳ではありません。

古くは、1989年の新MMRワクチン(麻疹Measles、流行性耳下腺炎(おたふく風邪)Mumps、風疹Rubellaの新3種混合ワクチン)が運用された直後、副反応として、無菌性髄膜炎(ムンプス髄膜炎)が、数10~100例ほど続いたのを受け、中止に追い込まれました。このワクチンは、製造を急いだたために、他の2種のワクチンに、別製造のムンプス・ワクチンを混合したため、精製不十分になったことが原因であることが判明しています。

 

しかし、無菌性髄膜炎自体は、Hib髄膜炎のような細菌性髄膜炎と大きく異なり、殆ど後遺症も残さずに速やかに寛解治癒することがよく知られています。

本件において発生した数10-100例の無菌性髄膜炎の症例も、やはり、同様に、速やかに後遺症を残さずに寛解に至りました。

では、何故、このワクチンは中止に追い込まれたのでしょうか?

最大の原因を作ったのは、またしても、日本のマスコミ、特に、読売新聞です。

彼誌は、当時、「新3種混合ワクチンの接種男児死ぬ」と、例によって、ろくな検証もせずに、扇情的報道を展開しました。

 

真実は、全く違うことは言うまでもありません。

死亡した児は、確かに、予防接種の副反応としてのムンプス(無菌性)髄膜炎に罹患し入院加療となりました。

そして、約3週間で完全寛解(治癒)に至り、退院となっています。しかし、退院後のおよそ3週間後に再び高熱を来たし、再入院となり、翌日死亡となりました。

病理解剖の結果、脳内からインフルエンザウィルスが検出され、死因は、インフルエンザ脳炎と診断確定されたのです。

補足しますと、この当時、インフルエンザ迅速検査キットは勿論、タミフルも存在しなかった時代です。

 

つまり、インフルエンザに対して、迅速な確定診断ができないばかりか、適切な治療薬も存在していない時代だったのです。

両者共に20世紀終わり頃に漸く実用化されたばかりです。

また、当時の特筆すべき状況として、学校でのインフルエンザ予防接種の集団接種が、やはり、3大有力新聞(朝日、読売、毎日)を中心としたマスコミの身勝手な同ワクチンの有効性・安全性に対する批判攻勢(後の疫学調査から科学的にインフルエンザ予防接種は、充分以上の有効性と安全性を有していることは証明されています)を受けて、1983年に廃止となったことを見逃すべきではありません。

従って、当然この死亡した男児も含めて、当時の多くの子供達が、数年以上、全くインフルエンザ予防接種を受けていなかったのです(即ち、インフルエンザに対する抗体を全く有していなかったと考えられます)。

 

1989年から1995年にかけて、インフルエンザ脳炎が猛威をふるい、年間200名以上の同症による死亡者(しかも、殆ど6歳未満の就学前児童)を出したことを、後の2007年から2008年にかけての、「インフルエンザ脳症をタミフルの副作用呼ばわりした事件」の顛末を観れば、一般国民は勿論、優秀な日本のマスコミ諸氏も、もはや忘却の彼方に追いやっている様ですが。

私自身も、1991年12月から1992年3月にかけてのわずか4ヶ月の間に、岐阜大学医学部附属病院で4名(全て6歳未満)ものインフルエンザ脳炎による死亡を、主治医として、あるいは、チーム医療の一員として、経験しております。

このように状況を詳細に分析すれば、上記の児を含めて、当時の膨大な数のインフルエンザ脳炎死亡を生み出した原因は、インフルエンザ予防接種を中止したことにあることは火を見るよりも明らかであり、その責任は当然、1)軽率なマスコミ(インフルエンザ予防接種を中止に追いやった)、2)圧力に屈して中止した厚生省、および、3)マスコミに幻惑され暴走した一般大衆(国民)自身の3者にあることは、申し上げるまでもありません。

20数年を経た今でも、彼等(特にマスコミと厚生省)の犯した深い罪業は決して消えることはなく、また忘却の彼方に追いやるべき性質のものではありません。今一度再検証しその償いをさせるべきではないでしょうか。

 

以上のように、この新3種混合ワクチンを巡る報道は、今回2011年の「Hibワクチンと肺炎球菌ワクチン同時接種」の馬鹿騒ぎのケースと全く同じ性質のものであり、完璧な誤報道であるのは勿論、許し難き冤罪と呼ぶべきものです。

 

しかも、ご丁寧に、読売新聞のその後の対応も、2011年の場合と全く同様で、一切の謝罪も釈明もありませんでした(性懲りもなく、読売新聞系列のテレビは、2011年7月以降も「同時接種により重大な後遺症が残った」と、証明しようのないというか、論理的にあり得ない虚偽報道を未だに続けているようです。一体何の狙いがあるのでしょうか)。

 

新3種混合ワクチンの時も、低レベルなマスコミ報道に踊らされた一般大衆の圧力に屈し(司法の非科学的判決も大きく影響していますが)、厚生省(当時)は、ワクチンの製造法を見直すだけで何の問題もなかったはずなのに、早々と新MMRワクチン接種を中止し、現在に至るまで再開されていません。

この様な例は、インフルエンザ脳症を「タミフルの副作用呼ばわりしたり」(この件は、上記に若干触れましたが、いずれ機会があれば、詳しく述べます)とか、枚挙にいとまがありません。

 

日本の常識は世界の非常識です。

 

日本のワクチンを取り巻く状況は、欧米に比べ20年以上遅れています。


日本の医療を取り巻く状況がこのままで言い訳がありません。

 

東京大学医学部小児科学教授 五十嵐 隆氏、国立病院機構三重病院院長 神谷 齊氏をはじめ、日本のワクチンに関して長らく第1人者であり続けた諸先生は、現在の日本の状況を、一言で表せば、上記のように表現できると異口同音に、様々な場で発言しておられます。

 

例えば、2009年3月に上記の2氏の他、国立感染症研究所感染症情報センター長 岡部 信彦氏らが、「我が国の予防接種体制の問題点と将来への展望」と銘打った座談会を行い、その中で、

「我が国の予防接種体制は世界標準から大きく後れてしまっている状況にあり、これを「ワクチンギャップ」と呼ぶ」と指摘されており、更に、この様な状況を生み出した大きな原因として、

  1. ワクチンのベネフィット(恩恵)とリスクに対する、欧米人と日本人のとらえ方の違いがあり、この根本原因は、日本における、科学的・論理的思考能力を育てようとする教育制度の欠落にある
  2. 科学的思考能力の欠落した軽率で反省しないマスメディア
  3. 司法の予防接種後事故に対する非科学的判決が、厚労省行政に大きく影響している

を、挙げておられます。

3については、上記の座談会で直接の言及はなかったものの、2011年7月に行われた、「我が国のワクチン行政とプライマリ・ケア医の担うべき役割を考えるシンポジウム」で、日本赤十字社医療センター小児科部長 薗部 友良氏(ワクチンに関しての日本の第1人者の一人)が講演された中での発言です。

 

更に、この講演の中で、薗部氏は、「予防接種を阻む3つの誤解〜日本における「ワクチン接種の真実」を見極め、VPDの啓蒙と予防を」と、題して終始強い口調で訴えかけられました(詳細は、第2回日本プライマリ・ケア連合学会学術大会を検索してみて下さい)。

 

薗部氏は、この講演において、「VPDの発症後には根本的な治療法がないのに、必要なワクチンを接種しないのはネグレクト、虐待だ」と、断言されています。

 

また、「日本では今でも有料の任意ワクチンが数多く、正確なVPDの疫学的データすら存在しない。この様な日本における予防接種制度の遅れの最大の原因は、司法の接種事故の非科学的な判決が、厚労省行政に大きく影響しているため」と、指摘されています。

 

また、薗部氏は、今回2011年3月にまたしても沸き起こった、「ヒブワクチンと肺炎球菌ワクチン同時接種に対する風評被害」についても述べておられます。以下、その講演の要旨です。

「同時接種の安全性は世界中で認められており、基礎疾患のある子供にこそ有益とされている。

普及すれば、保護者の付き添い通院などの利便性も高まり、接種率の向上にも寄与するだろう。

しかし、日本では今年3月にヒブ、肺炎球菌を含むワクチンの同時接種後に乳児の死亡例が相次いだことを受け、接種が一時中止される事態となり、世界中から関心が寄せられたが、VPD患者数増加を懸念する米国ワクチン専門家Paul Offit氏に、「こんなくだらないことで中止にするなんて、日本の厚労省はFoolish(大馬鹿者)だ」(Forbes誌、3月10日掲載)と(既述)、言われて蔑まれても仕方がないでしょう」

 

「最終的に両ワクチンおよび同時接種と乳児死亡との間に全く因果関係がないことが証明されてワクチン接種は再開されたが、接種率が中止前まで戻ってこない」

とも、発言され嘆いておられました。

そこで、この様な恥ずべき事態が昔から頻繁に日本だけで起きる理由として、上記の3つは勿論そうですが、さらに以下の様に分析され指摘されています。

 

誤解その1:VPDなんて罹っても大したことない?

VPDの臨床、医療経済上の「恐ろしさ」を、一般人は勿論、マスコミ諸氏や一部の医師ですら認識していないことは、日本だけで観られる不思議な現象である。

VPDでは、死亡を含む重症例が未だに起きていることが見過ごされがちだ。例えば、軽視されがちな水痘は、ワクチン発売前の米国では毎年17万5000人に合併症が発症、1万2000人が入院し、100人が死亡していたが、現在はワクチン2回接種で大幅に減少した。

しかし、日本では、任意接種のため極端に接種率が低い(日本での疫学データはありません。

但し、水痘は、まだゾビラックスと言う水痘・帯状疱疹ウイルスに対する特効薬が存在するだけまだましです)。他のVPDも同様で、発症すると現代医学でも経過観察しかしようがない場合が殆どである。

一方、臨床上の問題を放置すれば、医療経済上にも悪影響が及ぶ。VPDは容易に他人へ伝染し、医師は自然治癒を祈りつつ、最善の治療に追われる。即ち、本来ワクチンで防げたはずのVPDであるから、ワクチンの費用対効果は皆高い。

 

誤解その2:任意だから打たなくても大丈夫?

日本は「任意接種ワクチン」として、ヒブ、肺炎球菌、B型肝炎、インフルエンザ、子宮頚癌、水痘、流行性耳下腺炎を扱っている。

それに対して、WHOは、これらのワクチンをいずれも「先進国では全て定期接種に入れるべき」と位置づけている。

「任意」と伝われば、「自己判断で自由に」「必要性は低い」とも受け取られがちであり、理解がこう成されているとすると、諸外国における認識とは随分とギャップがある。

 

誤解その3:むしろ副作用(副反応の間違い)の方が危険?

「ワクチンの副作用(副反応の間違い)がより怖い」と思う日本人が余りにも多すぎる。

接種後の有害事象(真の副反応)には、「ワクチンによる有害事象(真の副反応)」と偶然の「有害事象(偽の副反応、紛れ込み事故)」とがある。両者を決して混同してはならないが、日本では「接種後に観られたこと(有害事象)=副作用(副反応の間違い)」と思い込まされている(この思い込ませている張本人は、上記に掲げたごとくマスメディア、教育、および、司法に踊らされる官僚行政の3者であり、彼らに全面的責任があることは明らかです)。

 

米国のACIP(ワクチン接種に関する諮問委員会)が2008年に発表した資料では、経口ロタウィルスワクチンとプラセボ(偽のワクチン。ゼリーなどの食品を用いることが多い)を投与して両者を比較しても、発熱、不機嫌、咳や鼻水、食欲不振などの発生率に差はないと言うデータがある。

ワクチン接種後に熱が上がった、咳や鼻水が出た、発疹が出たと言って、直ちにワクチンの問題と捉えるのは正しくない。

今までワクチンの重大な副作用(副反応の間違い)と疑われてきたことの殆どは、冤罪であることが分かってきている。

 

現在のワクチンで健常な小児に観られる「真の副反応」は、局所反応(DPTワクチンで約30%など)、発熱(麻疹で約6%、肺炎球菌ワクチンで約10%)などで、これらはいずれも軽微な副反応であり、ごく希な重大なものに、脳炎(流行性耳下腺炎)、骨炎(BCG)、ポリオ関連麻痺(ポリオ)、アナフィラキシーショックなどがあるが、いずれも発生確率は、航空機が落ちる確率よりも更に10万分の1以下に少ない。下痢や咳などは、他の感染症による症状であることが殆どである。

結論として、VPDの正しい実態を知り、その上で、ワクチン接種の意義を見直すべきだと、薗部氏は訴えています。

 

 

この様に、日本でもワクチン専門家の諸氏は、日本の状況を憂い常にことあるごとに発言し、状況を変えようと努力してきていますが、未だに状況は余り変わりません。

 

重要なのは、日本人一人一人(マスコミ諸氏や一部の医師も勿論含む)が、「このままでは世界から取り残される」という危機感を今すぐ覚えるべきことだと、私は考えます。


以下の文章は、2011年春まで、当ホームページに掲げていた文章を、敢えて原文に近い形で載せますので、一部現在の状況とは異なりますことをご了承下さい。

既に述べました様に、何の事前予告も無しに、厚生労働省は、2005年5月30日以降、日本脳炎(旧型)ワクチン接種を、一時見合わせる様、勧告を行いました(積極的勧奨の一時中止)。

 

その理由は、以下の2点に集約されます。

1. 日本脳炎患者(特に小児の)数が事実上ゼロになったこと。

2. 2004年に、日本脳炎ワクチン接種を受けた山梨県在住の14歳の女児3名が、その後に急性散在性脳脊髄炎(ADEM)を発病したこと。

厚生労働省が最も懸念するのは、特に2.の事であり、ワクチンの副反応としてADEMが発症したのではないかと、危惧していたのです。

そして、1.の様に、現在患者が存在しないならば、敢えてワクチンはしない方が無難だと言うのが、表向きの理由でした。

 

しかし、果たして本当にそれでよかったのでしょうか。

旧型ワクチンは、まず、マウスの脳に日本脳炎ウィルスを接種し、日本脳炎を発病したマウスの脳を取り出します。

次いで、その中からウイルス成分を抽出・精製し、さらに、ウィルス成分をホルマリンなどで不活化したものでつくられています。

これらの一連の精製段階で、マウスの脳成分自体が混入してADEM発症の原因となったのではないかと、同省グループは危惧していたのです。

そのため、現在(注: 2005年以降2009年までを差します)、マウス脳に依存しない組織培養細胞由来の不活化ワクチンを代わりに開発中であり、これが完成すれば、ワクチン勧奨を再開するとしています。しかし、予定されていた2006年度中の再開も見送られ、新ワクチンはまだ数年先のことになる見通しです。

ADEMは、日本脳炎以外のウィルスや何らかの細菌に感染した後に発症すると考えられていますが、たとえADEMを発症したとしても、完全治癒する場合が多く、後遺症(多くは歩行障害等の運動機能障害で、しかも、一過性の場合が多い)の残存する確率は10%弱程度とされています。

 

また、ADEMの自然発症率と日本脳炎予防接種後のADEM発症率との間に、統計的に全く差はなく、既存の、すなわち、マウス脳由来ワクチンでADEMが発症する(した)とは極めて考えにくいのです。

言い換えれば、日本脳炎新ワクチンが出来たとしても、その接種によってADEMが発症する危険性は、既存のものと同じだと言うことなのです。

さらには、たとえマウスの脳を用いたとしても、現代の優れた精製技術では、ワクチンにマウス脳成分が残存することはあり得ず、実際、旧型ワクチンからマウス脳成分は微量だに、検出されていません(ADEMを発病した際に使用されたワクチンからも)。

 

一方で、日本脳炎は、東南アジアやアフリカにおいては依然猛威をふるっており、日本ではもはや日本脳炎が流行しないとするのは、根拠に乏しい非科学的楽観論と言わざるを得ません。

 

さらに、日本脳炎は一旦発病すれば治療法がなく、しかも、致死率(20%程度)や救命できたとしても脳に重篤な後遺症を残す確率(40%程度)が、極めて高い恐ろしい病気なのです。

従って、何よりもワクチンで予防するべきものなのです。当院では、以上の様な科学的考えの基に、従来通り、積極的に旧型ワクチンでの日本脳炎ワクチン接種を勧め、執り行っていきます(上記のように、適用年齢内での接種は300円の窓口負担で受けられます: 2010年までの事情です)。

上記を当ホームページに上梓してから、早5年の歳月が経過し、この間、めまぐるしく情勢が変化しました。まず、組織培養細胞由来の不活化ワクチン(以下、新型ワクチンと呼びます)は、2006年にプロトタイプが完成し、数度の臨床試験を経た後、2009年6月から漸く供給が開始されました。この翌年2010年3月までは、所謂旧型ワクチンと新型ワクチンとが併用されていましたが、2010年3月末をもって、旧型ワクチンは製造供給が完全に中止となり、それ以降は、新型ワクチンのみとなっています。

 

そして、2010年4月1日、厚生労働省は、2005年の時と同様、何の前触れもなしに、突然、「日本脳炎ワクチンに対しての積極的勧奨の再開」を発表したのです。

 

さらに、2011年5月20日には、「1995年(平成7年)6月1日から2007年(平成19年)4月1日生まれまでの者で、日本脳炎予防接種を接種しないまま、本来の定期接種適応年齢(13歳未満)を超えてしまっていても、その者が20歳未満までに合計4回の接種を無料で受けられるよう配慮する」という趣旨の通達を発表しました。

 

つまり、現在、日本脳炎予防接種は定期接種に復活したばかりか、とうの昔に無料で受けれる年齢を超過した者(厚労省の決定を素直に信じて予防接種を受けていなかった者)でも無料で接種できるようになったのです。

実に喜ばしい大転換ですが、裏を返せば、何故、この様な節操のない対応をするのでしょうか?

この様な決定に至った理由は、私が収集した情報によりますと、以下の様になります。

まず、2005年5月の「間違った決定」のため、旧型ワクチンの接種を受ける子供達は当然激減しました。このこと自体は、この決定によって招来されるであろう厚労省の企図(何を企図していたかは敢えて記述しません)した結果であり、彼らは大変満足しました。

 

しかしながら、一方で、この「間違った決定」によって、厚労省のもう一つ期待した良いこと(急性散在性脳脊髄炎の発生抑止)は一切起こらず、かわりに彼らの企図していなかった(ある程度は予測していたかもしれません)最悪の事態が2つ発生し、彼らを大いに慌てふためかせることになりました。

 

第1の事象:2005年5月以降、急性散在性脳脊髄炎は逆に増加の一途をたどっています。

この結果は、急性散在性脳脊髄炎の病因は、旧型日本脳炎ワクチン接種ではなかった、即ち、急性散在性脳脊髄炎の発症原因は別にあり、旧型ワクチン接種と同症の発症は無関係であることを強く示唆するものです。

 

第2の事象2006年に熊本県で3歳男児の日本脳炎患者が発生しました。

以後、2007年に1人、2008年にも1人、更には、2009年には2人も日本脳炎が発生したのです(2010年にも1人発生)。これらの患児は、いずれも、1歳から6歳までの岡山県以西の日本で普通に生活していた子供達です(彼らは当然日本脳炎の流行している外国旅行などは一切していません)。

この患児たちは、幸い救命できましたが、残念ながら、言葉の障害や運動機能障害がやはり後遺症として残ってしまいました。

 

また、皮肉なことに(と言うか論理的帰結通り)、上項の急性散在性脳脊髄炎に罹患した山梨県女児3名は完全回復しています(そもそも山梨県だけにしか発症が起こらず、しかもたったの3名の発症事例がどうして中止に至る科学的判断の根拠となり得るのでしょうか)。

一方、厚生労働省が2006年〜2007年にかけて調査した結果によりますと、日本全国に飼育されている豚の殆どが日本脳炎ウィルスを有しており、特に三重県以西の養豚場の豚の同ウィルス陽性率は80-100%に達しているとのことです。

この結果を受けた厚生労働省は、2008年の春、「蚊に刺されないようにしましょう」と言う、有り難い注意を呼びかけました。

 

以上のような経過を踏まえ、彼らはやむなく、これまでと真逆の方針、即ち、「積極的接種勧奨の再開」という苦渋の決断に至ったようです。このことは、2005年5月の厚労省の決定、即ち、「積極的勧奨の一時中止」は完全に誤っていたと認めているのも同然なのです。

 

しかし、彼らは、自分たちが間違っていたとは決して認めません。従って、余り声を大にしてワクチンを打ちなさいとも言えず、2011年現在、全国の小学校に対して、各自治体の教育委員会を通じて、日本脳炎ワクチンを積極的に接種させるよう指導している有様です。

 

また、2011年3月のヒブワクチンと肺炎球菌を巡る「誤報道」の際(別項で述べます)には、あれほど、「ワクチンの副作用(副反応の間違い)」と称して、大騒ぎした日本のマスコミ(日本では最有力な3大新聞(朝日、読売、毎日)が率先して誤報道を展開しました。これらの1連の動きは、いずれも欧米からは低レベルかつ非科学的な態度と見なされています。「ワクチンの副作用」等という、「太陽が西から昇る」と主張するがごとき、非科学的誤表現を駆使して、公共に垂れ流しても厚顔無恥でいられるのですから、当然かもしれませんが)も、これらの日本脳炎を巡る一連の動きに対しては、2008年以降、奇異なことに、完全な沈黙を守り続けており、一言半句の記事や言及すらも、一切見受けられません。

少なくとも、国内で新たな日本脳炎患者が発生したと言う重大事実こそを、大々的に報道してしかるべきではないでしょうか?

 

それとも、報道したくても出来ない事情が存在した(する)とか、あるいは、敢えて報道すべきでないと何者かが判断した(し続けている)とでも言うのでしょうか。

 

日本のワクチンを取り巻く状況は、欧米に比べ20年以上遅れています。

 

日本脳炎を含め、有効な治療法が存在しない疾患は、ワクチンで予防する以外に手段がありません(麻疹、風疹、破傷風、ポリオなど、これらをVaccine Preventable Disease (VPD)と称します)。

当院は開院当時から、一貫して、日本脳炎を含めたVPDに対するワクチン接種を積極的に勧奨しています。

 

余談ですが、私にも小学生の息子がいますが、3歳になると同時に(当時、厚労省の「間違った決定」時代、即ち、「暗黒時代」でした)、私が全て旧型ワクチンで接種を執り行い、親としての責務を果たすことが出来て安堵しました。当然何の副反応も起きていません。また、息子だけでなく、私の考えに賛同して頂いた多くの親御さんの子供達(計50〜100名程になります)に対しても、2006年から2009年にかけて、旧型ワクチン接種を行い、医師としての果たすべき責務を全うしたと自負しています。

当然、この子供達にも何の副反応も起きていません。


私が当院を開院してから驚いたことの一つとして、ポリオ・ワクチンはおろか、3種混合ワクチンを一度も受けていない年長児〜学童期の児童に数多く遭遇したことです。中には、BCG接種すらも接種していない、完全ワクチンフリー児もいました。

 

しかも、更に驚くべき事は、これらのケースは全て、親御さんが偶々忘れていたとかの偶然的なケースや免疫不全症のため接種できなかったとかの正当な理由のあるケースではなく、故意に受けていなかったケースばかりなのです。

 

これらの児の親御さんに、接種していない理由を尋ねると、その殆ど全てが、「ワクチンによる副作用(副反応の間違い)が怖い」という、馬鹿げた理由によるものであり、しかも、その考えを積極的に後押しするような医師もどき(と言うよりも、詐欺師あるいは祈祷師に近い)が、どうやら京都市に存在して「普通に診療を行っている」ことに、二重の意味で驚かされました。

 

彼の詐欺師・祈祷師は、何の正当な医学的(薬理学的・分子生物学的・免疫学的)根拠もなしに、「この子は、香料や着色料に対するアレルギーがあるから、それらを含んだ食品を摂取することは勿論、それらを使用した薬も飲んではいけない。また、ワクチンも同様に受けては危険だ」と、事実上不可能であると同時に、確実に著しい弊害を招くに違いない、非現実的指導を平然と行うと、聞き及んでいます(2011年現在も続けているようです)。

 

もし、これが事実ならば(事実のようですが)、およそ、彼(彼女?)はまともな医学教育を受けて、医学部を卒業したのかどうかすら、疑いたくなります。

これらの児の親御さんに対して、勿論、その様な考えは根本から間違っていることを論理的にお話しし、ワクチンを受けるよう説得しました。

しかしながら、私の意見に真摯に耳を傾けてくれたのは、その内のわずか5名ほどにとどまり、他の人たちは、その後、一切当院へ来院されていません(おそらく件の詐欺師のところへ(洗脳されているため)戻ったものと考えられます)。

 

VPD(ワクチンにて予防可能な疾患(Vaccine Preventable Disease))の話は、別項目で述べていますが、これらの児は、自身が危険であるばかりでなく、周囲の無垢な児達にVPDを拡大させる恐れを有し、社会的重大問題ですらあるのです。

 

別項目で述べた米国のワクチン専門家Paul Offit氏が、もしこの話を聞けば、「Not Only Foolish But Also Crazy(大馬鹿者であるばかりか狂気の沙汰だ)」と叫ぶに違いありません。

 

ただ、私としては、これ以上彼の哀れな児達を祈祷師から救出する手段はなく、ただ、いつの日か、「洗脳状態」から(彼らの親御さん達が)目覚めてもらうことを祈るしかありません。


 


私とチェコの友人Dr. Vladimir Dolezal: フライブルク大学薬理学研究所にて。 1994年3月
少し遅くなりましたが、毎年12月になると、ドイツのder Advent(待降節。クリスマスWeihnachten前の4週間)を思い出します。それは、日本の商業主義に踊らされた中身のない「クリスマスもどき」とは比べものになりません。

夏の間は、毎日そこら中で見かけた大道芸人(der Strassenkünstler)が姿を消し、代わりに聖歌人(隊)(der Kirchenchor)による優しい聖歌(das Kirchenlied)の響きが町中にあふれ、暖かい点滅しないほのかな明かり(蛍光灯は一部のオフィスビル以外、ドイツを含めたヨーロッパの家屋や街灯には使われていません。ましてやネオンサインなどは、Hamburgの一部地域以外は、その使用を法律で禁止されているのです!)と共に、キリストの誕生を静謐に祝う荘厳な雰囲気に街が包まれます。

そして、何と言っても、der Weihnachtsmarkt(クリスマス市場)の楽しさ!
どこの街でも、街の中心部に大きな広場(der Platz)があり、そこでAdventの期間、市(der Markt)が立ち、種々様々な屋台が並ぶのです。
人々は、そこに集い、クリスマスに必要な衣服、食糧、ローソクや飾り付け等を買い求めることが出来ます。

 


 

フライブルク(Freiburg im Breisgau)

さらに、日本の正月の市と同じく、多種多様な食べ物屋台も軒を並べます。

うすぼんやりした黄色の太陽が低く浮かぶ冬の休日に、遠くから響くMünster(大聖堂)の優しくも荘厳な鐘の音に包まれながら、Bratwurst(焼きソーセージ。特に南ドイツ特有のWeisswurstが美味)をほおばり、Glühwein(熱燗ワイン。紅茶とレモンに赤ワインを入れ、熱くしたもの)を傾ける。その至福の時を、私は今でも忘れることが出来ません。

広場を囲むのは、日頃見慣れた様々な商店。看板には、Cafe(喫茶店)、Bäckerei(パン屋)、Konditorei(洋菓子店)、Bücher(本屋)、Coiffeur(理髪店)、Bank(銀行)、Apotheke(薬局)、そして、Lebensmittel...
薬のことを英語では、medicineと言います。
元々は、古フランス語のmedicine、さらに遡ればラテン語のmedicinaが語源とされています。
いずれも、医学、医療(広義では治療)と同義語であり、動詞になれば、「薬で治療する」という意味になります。
この様に、薬は如何に医学の治療の根幹を成しているかと言うことが、この言葉に凝縮されていると言えましょう。
日本でも、江戸時代以前の医師は薬師(くすし)と称される事もありました。
これらに対して、ドイツ語では、薬のことをdas Mittelと言います。
ところが、ドイツ語のMittelには、医学・医療の意味はなく、手段とか資金とかと同義語となっています。
つまり、英語(フランス語)では、means(手段)に当たるのです。



フライブルク(Freiburg im Breisgau)の 大聖堂(Münster)
一方、ドイツ語で医学はdie Medizineと言います。即ち、英語・フランス語と全く同じ語源なのです。
元々、医学は、ギリシャのヒッポクラテスにより始められた学問であり、ローマにおいて発展し、ローマ帝国の範図拡大と共に、ローマ人によって、全ヨーロッパに広められました。
ドイツ(現在のオーストリアやスイスなども含む)は、最後まで、ローマ人の侵攻を許さず、屈強なゲルマン人として、長くローマ人の脅威となっていました。

この様な歴史を踏まえれば、ドイツ語で医学(ローマ人がもたらしたもの)と薬が区別されているのは当然かと思います。
つまり、「医学」という概念が存在しなかった時代から、病を軽減・治癒する「手段」としてdas Mittelを用いてきたと言うことを物語っています。
一方で、おもしろいことに、食料品・食糧のことを、上述の様に、ドイツ語では、das Lebensmittelと言います。
この単語の後半は勿論、Mittelですが、前半のLebenとは、生命・人生のことであり、英語では言うまでもなく、Lifeであります。
つまり、ドイツ語のdas Lebensmittelを言葉通りに直訳すると、「生命の薬」となるのです。
食糧=生命の薬。
何と素晴らしい言葉だと思いませんか!古来中国では、「医食同源」と言いますが、その精神と同じ意味を持つ言葉が、ドイツ語では、「食料品・食糧」として使われているのです。私はドイツ語を勉強し始めてから、この言葉に遭遇して大いに感動したことを今でも覚えています。
食糧無くして生命を維持することは生物にとって不可欠です。ゲルマン民族は、いにしえの時から、言葉一つにも論理的整合性を持たせてきたことが窺い知れます。日頃のバランスの取れた食生活こそが、健康を維持する源であることを、この言葉は改めて教えてくれています。
ドイツをはじめヨーロッパでは、新年2日から通常に仕事が始まり、7日を過ぎると、街の中心に立っていたクリスマスツリーも撤去されます。いよいよ2007年が始まりました。今年一年、皆様にとってどうかよい年でありますように。
Frohe Neues Yahr!